敢国神社 三重県伊賀市一之宮 式内社(伊賀国阿拝郡 敢国神社[大])
伊賀国一宮
旧・国幣中社
現在の祭神 大彦命・少彦名命・金山比咩命
本地 聖観音 十一面観音

「三重県神社誌」第二巻

国幣中社 敢国神社[LINK]

「伊賀国誌」には少彦名命及南宮金山日売二座となし且相殿に甲賀三郎兼家の霊を祀るとし
敢国社 神名帳に敢国神社(一座大) 社記に本宮二座少彦名命宮金山日売  本社少彦名命号正一位敢国角大明神。 (中略) 少彦名命の神躰仙人影像也。 (註文略す) 金山比咩の神躰蛇形の蟠る形 美濃国垂井の南宮に同 相殿に甲賀三郎兼家霊儀十一面観音の座像
と記したり。 「伊水温故」に云ふ所も大躰以上に同し 但甲賀三郎のことに就いては「温故」述る所最も詳なり 即ち左に掲く
六十一代[六十代]醍醐天王の御宇に信濃国の大主に諏訪源左衛門源重頼と号し武将有て朝家に仕奉たり 其子三人有 嫡男太郎は号望月信濃守重宗 次郎は望月美濃守貞頼と号す 三郎は望月隠岐守兼家と号す 源左衛門重頼子にして源姓也 其先をいへは大己貴第二の子健御名方命(諏訪明神也)其苗裔の末葉也 源左衛門子三人共に人皇六十代醍醐天皇仕 延喜三年八月三郎兼家舎兄太郎次郎共に国山にあそふ 兼家若狭国高懸山の窟に入て鬼輪王を殺す 漸々窟中をしのき出江州甲賀郡に徘徊し 六十一代朱雀院御宇承平二年に持往日之事天聴に達す 故に太郎重宗次郎貞頼兼家か威力を恐て自害す 兼家は同年平将門謀逆によつて有軍功為甲賀郡主称甲賀近江守被任刑部卿 太郎重宗次郎貞頼か子孫は号諏訪と或望月号 然而後当国の太守成 当郡に住して世を去 弥威甚光を増に依て敢国にあはせ奉勧請 則正躰として十一面観音を奉納す

甲賀三郎兼家(十一面観音)は宝暦元年[1751]以前に摂社・六所社に遷座

福田晃「神道集説話の成立」

第二編 諏訪縁起の成立

第二章 甲賀三郎譚の管理者(一)

臼田甚五郎氏所蔵の慶長写本『しなのゝ諏訪の神伝』、同正保三年書写『諏訪明神縁記』には、三郎の館は伊賀国けてうの郡といい、兄二人は後伊賀国二所の宮(少彦名命と金山比売の二柱を祭神とする伊賀一の宮敢国神社のことか)とあらわれたと記していた。 そして『大岡実録観世音利生記』なるものと、その内容を一にすると言われる赤木文庫蔵『すはの本地』の奥書は次のようである。
そもそもいかの国のやしろえ御やうかう、元始をたつねたてまつるに、仁王四十八代称徳天王の御宇、神護景雲年中、南山杉の本、大せきしやうに、やうかうし給ふ、 三とせの後、きたのたけへうつり給ひ、こくちうの人みんをまほり給ふ、 [中略] 右ふし見る、たうしやかんこくつ大神は、本地しやうくわんちさいほさつの、すいしやくなり、 (後略)
神護景雲年中南宮山に影向、三年後にその北一宮山遷宮を述べ、当社敢国津大明神の聖観音なるを説く。

「日本の神々 6 伊勢・志摩・伊賀・紀伊」

敢国神社(森川桜男)

 また『兼右卿記』には永禄十一年三月十日条で、一宮の縁起を見せてもらったが祭神や由来について一向に正説がなかったとしながらも、次の一節を書写している。 「称徳天皇神護景雲二月戊申歳 千七百余歳可 近江国甲賀郡峯寺(飯道寺)ニ御影ヲ留給フ、彼峯寺より当国南宮山に飛玉フ、諏訪(よりかた)春日姫是也 此春日姫ハ当社ノ后也、諏方正観音、春日姫普賢」云々。
 飯道寺に修験道が入るのは熊野の行範が嘉元年中(1303-6)に来て以来とされる(肥後和男『飯道山』)。 甲賀三郎譚は十四世紀半ばの成立とされる『神道集』に載っているが、この書は諏訪明神の本地甲賀三郎の実名を「諏訪(よりかた)」と伝え、また甲賀望月系は「甲賀三郎兼家」もしくは「望月三郎」と伝えており、柳田三郎の想定によれば、諏訪(よりかた)系語りの中心は飯道寺で、兼家系は甲賀郡水口町大岡寺観音堂であろうという(甲賀三郎の物語)。 なお『兼右卿記』にみえる一宮縁起は飯道寺を中心とした諏訪(よりかた)系のものであるが、『伊水温故』では「諏訪」が「兼家」に変わってる。
 また前記の永禄十一年三月十五日条には「一宮諏方社末社大石戸並若宮正遷宮」云々とあるが、現在の敢国神社に諏訪社はなく、『敢国神社誌』によれば、古くは本殿東の六所社に甲賀三郎兼家の霊を祀り、兼家の尊信するところの観音大士の像を安置していたという。