赤城神社 群馬県前橋市三夜沢町 式内論社(上野国勢多郡 赤城神社〈名神大〉)
上野国二宮
旧・県社
現在の祭神 大己貴命・豊城入彦命
本地
西宮赤城明神(大沼)千手観音
小沼明神虚空蔵菩薩
東宮覚満大菩薩地蔵菩薩

「神道集」巻第三

上野国九ヶ所大明神事

二の宮は赤城大明神と申し、総じて三所御在す。
大沼は本地千手なり。 妙覚高貴の体は、寂光の都に静なれども、遍応法界の光は、娑婆の塵に交わり、善巧方便の故に、極果を押へ、利益衆生の故に、身を等覚に息めたまへと云々。
小沼は本地虚空蔵なり。 この仏はこれ十地究竟の大士、三有利生の権化なり。
[中略]
禅頂は本地地蔵菩薩なり。 この仏はこれ忉利天上には補処の大士、無仏世界には引導の上首なり。

「神道集」巻第八

上野国赤城山三所大明神内覚満大菩薩事

そもそもこの明神は、人王第二十代允恭天王の御時、比叡山の坂本に、二人の僧あり。 兄をは近江の竪者覚円と云ひ、弟をは美濃の法印覚満とぞ申しける。
[中略]
今は覚満大菩薩と号して、赤城山の禅定に立ちたまふ。
赤城山三所明神と顕れて。大沼は赤城御前、今は赤城明神とて、御本地は千手なり。
小沼は御父の高野辺大将殿なり。 今は小沼明神とて、御本地は虚空蔵菩薩なり。
山頂は美濃法印覚満なり。 今は赤城山の山頂に覚満大菩薩とて、御本地は地蔵菩薩なり。

「社寺縁起伝説辞典」

赤城神社(小林宣彦)

 『神道集』によれば、履中天皇の御宇、高野辺左大将家成という公卿が上野国勢多郡深栖郷に流され、そこで若君を一人、姫君を三人もうけた。 若君は成人すると都に上り仕官を許されたが、大将の奥方は、まだ姫君が小さいうちに亡くなってしまった。 大将は信濃国更科郡の地頭更科大夫宗行の娘を後妻とし、さらに姫君をもうけた。 そのうち大将は都に帰ることを許され、上野国司に任命された。 大将は先妻の三人の姫君(淵名次郎家兼の養母に預けた淵名姫、赤城の大室太郎兼保の養母に預けた赤城御前、有馬の伊香保大夫伊保に預けた伊香保姫)に聟を迎えようとするが、後妻はそれをねたみ、弟の更科次郎兼光に姫君たちを殺させることにした。 更科次郎は淵名次郎と大室太郎と淵名姫を殺したが、赤城御前は赤城山に逃げ込むことができた。 赤城御前は山中をさまよった末、赤城沼の竜神の跡を継いで赤城大明神となった。 伊香保大夫は城郭を構えて待ち受けたので被害がなかった。 高野辺大将が上野国に下向し、淵名姫が殺された倍屋ガ淵(=簍淵)に来ると、淵名姫が現れて神の身になったことを告げる。 そして、大将も倍屋ガ淵に身を投げて自殺してしまう。 大将の長男は、都で中納言・上野国司となっていたが、二人の妹と父が亡くなったことを知って東国に急行した。 大軍を率いた中納言は更科次郎を捕らえて処罰、後妻は信濃国に追放した。 中納言は父と妹が亡くなった場所に淵名明神の社を建て、赤城山の大沼と小沼にも社を建てお祀りした。 小沼で三日間滞在したので、その地を三夜沢という。 そして中納言は、上野国司を伊香保姫に譲り、伊香保大夫を後見人とした。 伊香保姫のいた御所の跡には上野国の総社が建てられたという。
 「上野国九ヶ所大明神事」と「上野国赤城山三所大明神、内覚満大菩薩事」でも、「二宮赤城大明神」は三所に在し、それぞれ、大沼は赤城明神(=赤城御前)で本地は千手観音、小沼は小沼明神(=高野辺大将)で本地は虚空蔵菩薩、山頂(=地蔵岳)は美濃法印覚満とする。 覚満はもともと比叡山の僧であったが、赤城山で法会をし、覚満大菩薩となったとされ、その本地は地蔵菩薩とされた。

尾崎喜左雄「上野国の信仰と文化」

赤城神社の研究

神宮寺と御正体

 年代記明治二年の条に「二月神光寺竜赤寺廃寺ニ成相済」とある。 神光寺は西宮、竜赤寺は東宮の神宮寺であり、この時に廃寺となった。
[中略]
 この両寺の創建については不明である。 赤城神社誌には永禄年間かとも出ているが、確実なところはまだわからない。 年代記の享徳二年の条に「神光寺堂造立成就」とあるので、この時に造られたことは推定し得るが、それが最初であるか否かは考えられない。 しかし、年代記の至徳三年の条に
今年二月御造立宝堂共三所成就
とあり、応永十三年の条に
東社地蔵一千躰西社虚空蔵千手観音五百躰ツツ当国邑楽郡庄司寄進
とあり、この千体宛の仏像を安置した場所が必要であったであろうし、既に仏堂の存在を前提として考えて好いと思う。
 右の東社地蔵一千躰西社虚空蔵千手観音五百躰ツツとあるのは、千体仏供養の風潮によって奉造されたものであろうが、その地蔵、虚空蔵、千手観音は本地垂迹説により、赤城神社の本地仏として考えられたものである。
[中略]
 勢多郡黒保根村大字湧丸の医光寺には虚空蔵の銅製座像が客仏として安置されている。 先年里人が小沼の東、俗称小地蔵岳から負いおろしたもので、堂舍の破壊により、像の滅失を憂えて、医光寺に運んだ由である。 この像の背面に
本主村上三光坊
上州赤城山
小冶(沼カ)本地虚空蔵菩薩
[以下略]
の銘があり、神道集の小沼明神の本地仏と合致する。 また、年代記応永十三年の条には
大洞地蔵岳当国佐貫庄司又太郎藤原沙弥道広
とあって、地蔵岳に地蔵が安置されていたこととともに、その造立は応永十三年であることも推定され、同時に現在地蔵岳の地蔵は廃仏棄釈 の際、頂上より蹴おとされて、首、胴、腕が別々に保存され、或は不明になっていることにも合わせ、右の虚空蔵の存在とその銘文とにより、地蔵に関する記事も妥当であると考え得る。 なお、年代記寛政十二年の条の
今年三月大洞千手観音前橋ニテ開帳
の記事も大沼明神が千手観音であることの参考になし得る。