赤倉神社 石川県七尾市田鶴浜町三引 旧・郷社
現在の祭神 大山咋神
[合祀] 菅原道真 <亀山天神社>・菊理媛命 <白山社>・天照大神 <神明社>・迦具土神 <愛宕社>・手力男神・八意思兼神・神日本磐余彦命(神武天皇) <波仁屋社>
本地 釈迦如来 千手観音

「能登国名跡志」坤之巻

赤蔵山権現[LINK]

また三引村近し、田鶴浜村続きなり、 是に赤蔵山とて大寺あり、本坊赤蔵山本宮寺と号す、 推古天皇御祈願所にして、七堂伽藍御建立其頃は六十坊ありしか、兵乱に焼失して今僅栄春院・怡岩院の二坊あり、 赤蔵山権現は本地千手観音にて、麓より二十町登るなり、 本社二町にして閼伽水とて冷水あり、試に権現御手洗にて清き事限りなき神水なり、 今も諸堂建並て大伽藍なり、 講堂に弘法大師の作の五智如来の金像の丈六の大仏五体安置あり、 霊場にして長家より修覆あり、同寺領七石山方一里寄附あり、 元は衆徒多く石動山に准しける山なりしなり、 又末社に亀山天神とて奇瑞多き御神なり、 赤蔵山権現は近き迄両部習合にて、神主長尾土佐守とて有しに、社僧と論ありて断絶せり。

「石川県鹿島郡誌」後編

赤倉神社[LINK]

○赤倉神社(赤蔵村字三引五十三部五及、九番地鎮座)
[中略]
◎仏像
(イ)釈迦仏像。 木製立像なり。丈け一尺二寸、台座八寸、御光一尺五寸六分あり。 元赤蔵山大権現の本地仏にして三十三年に一度開扉する慣例となれり。

「石川県銘文集成」第3巻

赤蔵山上一本宮寺造立棟札[LINK]

赤蔵山上一本宮寺造立棟札 鹿島郡田鶴浜町三引 赤倉神社
形状=木製で尖頭状。高さ75.5糎、上幅26糎、下幅23.2糎、厚さ1.5糎
銘文=表裏両面に墨書。
(表)
 大檀那 長谷部信連後胤廿二代長左金吾連頼
奉造立能州鹿嶋郡赤蔵山上一本宮寺社頭本地釈迦牟尼如来
 預造立義家臣浦野孫右衛門尉信秀嫡子浦野兵庫頭信里

「日本の神々 神社と聖地 8 北陸」

赤蔵神社(小林忠雄・高橋裕)

 当社の祭神は大山咋命とされているが、俗に赤蔵権現・赤蔵山大権現とも呼ばれている。 また赤蔵山は御前山とも呼ばれ、本殿のある山頂はとくに大御前とも呼ばれる。
 社伝によれば、推古天皇の七年、大地震のあと朝廷より赤蔵山に祈願があり、天平二年(730)聖武天皇の東宮が眼病を患ったとき、母后の夢に老翁が現れ、能州赤蔵山の大権現に祈らば癒えんと告げたので、天皇は愚淵法師以下三十余僧を当山につかわし、一宇を建て壇を設けて法華会を修したところ、霊験現れ、東宮の眼病が治ったという。 その後、後白河天皇のとき神殿を再興、社僧百二十坊を置き、赤蔵山一本宮寺と号し、降って天正の乱で焼失したが豪族長連頼によって再興され、長氏の祈願所となった。
 赤蔵権現は釈迦牟尼の木造立像を本地仏とする神仏習合形態をとっていたため、とくに明治の神仏分離後は社家と僧侶の間で争いが絶えず、記録類も失われた。 かつて境内には万治二年(1659)建立の講堂があり、享保二年(1717)の境内図を示した扁額には三重の塔が描かれていたが今はない。 山頂の大御前には本殿があり、奥ノ院と称されている。