秋葉山本宮秋葉神社 静岡県浜松市天竜区春野町領家 国史現在社論社(岐気保神)
旧・県社
現在の祭神 火之迦具土大神
本地 聖観音 勝軍地蔵

「遠州秋葉山略縁起」

此山の本尊ハ大聖文殊菩薩の再生行基菩薩の手沢の聖観世音也。 殊さら此菩薩の利益ハ六十二おく(億)恒河沙の諸々の菩薩を礼拝供養してゑる所の福徳の利益も、此観世音一菩薩を供養して得る所の福徳もまさにひとしけれバ、なとがきぎとせらんや、 殊ニ当山の守護神正一位三尺坊大権現と申するハ、観世音菩薩のすいしやく(垂迹)ごんけ(権化)にて、広大慈悲のせいくわん(誓願)、本地観世音大士と異なる事なし。
[中略]
此神のゆらい(由来)わ本信州生れなり。 御母常に観世音を心仰し給ひしか、ある夜の夢にくわん世音ぼさつ(観世音菩薩)三十二応身のうちにて迦楼羅身を現し給ふと見て、くわいにん(懐妊)したまへ、 ほと(程)無福徳智恵の相あるやんごとなき男子誕生あれハ、御父母なゝめならす悦び給ひ、 そのかみ希有瑞にて生れ給ひし子なればとて六七歳にて出家させしかハ、大学無双のあじやり(阿闍梨)となり給ふ。 其後年月をへてのち越後国蔵王堂に十二坊あり、其第一を三尺坊といふ、その坊のあるじとなり給ふ。 此時に不動三昧の法を一七日の間に八千枚八千度〈八千茎支木を焼て一座とす八千度ハ八千座也〉執行し、まん(満)する明月焼香の中にくわゑんもへあがり(火焔燃え上がり)、鳥形両翼にして左右に剣索を持たる相げん(現)ぜしかバ、一法ハ成就したり我身即本尊とならんと一心にくわんねん(観念)をなしたまへば、煩悩業生死の過患を滅尽してたちまち飛行じざい(自在)神通をヱ給ふ。 しかる所へ一つの白狐生現せしかば、則白狐にのり何国にてもとゝまらん所にわれ住して度生利益もつはら(専ら)にせんとちかひたまへ(誓い給へ)、こくう(虚空)を飛行し給ひしに、今の秋葉山に白狐とゝまりしかば、爰を安住峯と極め給ふ。 其時空中に声有て、以種しゆ形遊諸国土度脱衆生の文聞へけれハ、誠ニ我ハ観世音のけげん(化現)たる事托胎の母夢と空中に音声とかれ、是符合すれば弥々うたかふ所にあらすと、みつから(自ら)本地をくわんじ給ふ。 幸此山に行基大師の安置し給ふ観世音菩薩あれハ、是を常に礼拝供養し給ふ。 其頃ハ養老二年行基開基より九十年後にて人王五十二主嵯峨天王の御宇大同四(己丑)歳の事也。 [中略] 人皇九十二主伏見院の御宇永仁二(甲午)歳八月中しゆん(旬)、本の山中に帰山ましまして神と化し給ふ。

「掛川誌稿」第九巻
(周智郡 二)

三尺坊大権現[LINK]

三尺坊大権現 右[秋葉山]にあり、此を本社と称す、 秋葉寺縁起に、当山の守護神正一位三尺坊大権現と申奉るは、観世音菩薩の垂跡権化にて、本ト信州の生れなり、 御母常に観世音を信仰し玉しが、或夜の夢に、観世音菩隆三十二応身の中にて、迦楼羅身を現し給ふと見て懐妊し給ひ、程なく福徳智惠の相あるやん事なき男子誕生あれば、御父母斜ならず悦給ひ、そのかみ希有の瑞にて生れ給ひし子なればとて、六七歳にて出家させしかば、大学無双の阿闍梨となり給ふ、 其後年月を経て越後国蔵王堂十二坊あり、其第一を三尺坊と云、其坊の主と成給ふ、 此時に不動三昧の法を一七日の間執行し、満する暁焼香の中に火焔もえ上り、鳥形両翼にして左右に剣索を持たる相現せしかば、一法は成就したり、我身即本尊とならんと心に観念をなし給へば、煩悩業生死の過患を滅尽として、忽飛行自在神通を得給う、 然る所へ一の白狐出現せしかば、則此白狐に乗、何国にてもとゝまらん所に我住して、度生利益専にせんと契ひ給ひ、虚空を飛行し給しに、今の秋葉山に白狐とゞまりしかば、爰を安住の峰と極め給ふ、 其時空中に声ありて、以種々形遊諸国度脱衆生の文聞へければ、誠に我は観世音菩薩の化現たる事、托胎の母の夢と、空中の音声と、彼是符合すれば、弥疑ふ所にあらすと、自ら本地を観し給ふ、 幸此山に行基大師の安置し給し観世音菩薩あれば、常に是を礼拝供養し給ふ、 其頃は行基開基より九十年後にて、大同四年の事也、 其後又弘仁二年より諸国に遊化して、峰々嶽々虚空を飛行しあらゆる名山大川をめくり給ふ、 其間四百六十余年を経て、永仁二年八月中旬、本の山中に帰り給ひ、神と化し給ふとあり

「明治維新神仏分離史料」巻上

高柳光寿「秋葉山神仏分離事件調書」[LINK]

二 分離発令以前の状況
 神社側の手に成りし縁起沿革としては「秋葉みやけ」及び「静岡県下遠江周智郡犬居村正一位秋葉神社略図」に載せてあるもの、及び「当社略史壹」と題するものゝ中に収めてある明治六年三月二十八日―神仏分離筆行後に於ける第一回祭典日―の「改正神事祝詞」及び、同時の「賀秋葉神社改正贈近重八潮彦歌、小国重友」に見えて居るのであるが、これらは何れも、秋葉山の祭神は火之迦具土神であつて、往古からこの山に鎮座ましまして居る、或は和銅二年十一月十六日に、鎮座とも伝へて居る、 秋葉の御山に鎮まりませるによつて、秋葉の大神と申す、古くは岐気ノ保の神とも称した、 [中略] 今の秋葉は古の岐陛の地に当り、岐気の保の神とは、岐陛の郷に鎮ります火の神といふ意味である、 三代実録貞観十六年五月十日の條に、遠江国正六位上岐気保神に従五位下を授くとあるもの、これである、
[中略]
 寺院側の手に成りし縁起沿革としては秋葉寺の手に成つたものでは「秋葉寺書上」及び「秋葉山秋葉寺略縁起」があり、可睡斎の手に成つたものでは「遠州秋葉総本殿可睡斎縁起」がある、 [中略] 秋葉山は行基菩薩開創の古道場であつて、菩薩自ら彫刻するところの聖観世音菩薩、十一面観世音菩薩、将軍地蔵尊及び四天王等を奉祀するところである、 而して三尺坊威徳大権現は、観世音菩薩の応身なるを以て、行基菩薩自彫の観世音菩薩の霊像あるを幸として、迹を此山に垂れたのであるが、無碍の神通無量の慈悲帰依する者甚だ多く、寺号を霊雲院といひ、大洞山秋葉寺と号し、遂には後桃園天皇の勅願所となり、以て我国届指の道場となつたのであるといつて居る、
[中略]
四 秋葉山信仰の当体
 然らば三尺坊威徳大権現とはそも如何なるものであるか、これに就いては寺院方、殊に秋葉寺自身のいふところが、既に区々であつて其の正体は甚だ捕捉し難き状態にあるのである、 明治元年七月弁事官へ宛てゝ差出した秋葉寺の由緒書の写によると、元正天皇の養老二年行基菩薩の草創以前に当つて、元明天皇の和銅二年十一月十六日に、将軍地蔵菩薩則迦縷羅が身を形に現じて、我は是れ三尺坊なり、一切衆生無明煩悩の業火の為めに苦むを憐れむ故に、今此地に垂跡して国家火防の守護たらむと宣ふたのであつて、こゝに秋葉山は始る樣に記して居る、 然るに現今発行されて居る「秋葉山秋葉寺略縁起」には、三尺坊は養老二年行基菩薩草創の後平城天皇の大同四年霜月に秋葉山に出現して、火難鎮護に任じたと見えて居るのである、 而して可睡斎の記録「遠州秋葉総本殿可睡斎縁起」は大体に於いて後者の説と同様であるが、更に三尺坊出現の理由を説明して、三尺坊威徳大権現は観世音菩薩の応身なるを以て、此山に行基菩薩手づから彫刻し給ふところの観世音菩薩の霊像あるを幸として迹を此山に垂れてたのであるといひ、なほ大同四年出現の後諸国に遊化し、所有の衆生に勝縁を結び、後、伏見天皇の永仁二年八月十六日秋葉寺に帰来して、再び全身を現じたのであると称して居る、
[中略]
 而して神社側の説によると、この三尺坊は越後国古志郡栃尾の蔵王堂の三尺坊主であつて、これが大同四年或は永仁年中に、秋葉山に登り、真言秘密の修法に長じて居つたので、頭には火の神の威徳を戴き身には仏陀の法衣を纒うて、大に霊験を説いたので、衆庶これに帰依し、一山悉くその配下に参じ、遂に三尺坊は火防の神の権化である、聖観世音菩薩の権現であるといふ様に考へる様になつたのであるといつて居る、