穴八幡宮 東京都新宿区西早稲田2丁目 旧・村社
現在の祭神 応神天皇・仲哀天皇・神功皇后
本地 阿弥陀如来

「江戸名所図会」巻之四(天権之部)

高田八幡宮

牛込の総鎮守にして高田にあり(世に穴八幡と呼べり)。 この地を戸塚といふ。 別当は真言宗にして光松山放生会寺と号す(旧称は威盛院中之坊と唱へしとなれり。祭礼は八月十五日にて、放生会あり。旅所は牛込神楽坂の中腹にあり)。
社記に云く、寛永十三年丙子、御弓隊の長松平新五左衛門源直次に与力の輩、射術練習のためこの地に的山を築き立てらる。 八幡宮は源家の宗廟にして、しかも弓箭の守護神なればとて、この地に勧請せんことを謀る。 この山に素より古松二株あり。 その頃山鳩来つて日々にこの松上に遊ぶをもつて霊瑞とし、仮に八幡大神の小祠を営みて、件の松樹を神木とす。 この地、昔は阿弥陀山と呼び来りしとなり。 されど、そのゆゐんを知る者なかりしに、同十八年辛巳の夏、中野宝仙寺秀雄法印の会下に、威盛院良昌といへる沙門あり。 周防国の産にして山口八幡の氏子なり。 よつてこの沙門を迎へて社僧ならしむ。 ゆゑに、同年の秋八月三日草庵を結ばんとして、山の腰を切り闢くときに、一つの霊窟を得たり。 その窟のうち石上に金銅の阿弥陀の霊像一躯たたせたまへり(御長三寸ばかり)。 八幡宮の本地にて、しかも山の号に相応するをもつて奇なりとす (穴八幡の号、ここに起これり。その旧址いまなほ坂の傍らにあり)。

「新編武蔵風土記稿」巻之十一
(豊島郡之三)

下戸塚村

八幡社

穴八幡と号す、正八幡なり、 仲哀天皇神功皇后を合祀す、 共に大橋龍慶霊瑞を得て、牛込榎町の古榎樹を以て彫刻し寛永十九年四月八日多磨郡中野宝仙寺住僧秀雄開眼せる由裏銘あり、 社伝に云此所古より八幡の小祠及ひ阿弥陀堂あり、年を経て荒廃し、神木の老松一樹残りしか、 寛永十三年御持弓頭松平新五左衛門直次に属せし同心の輩、彼神木に近き所に的場を築きしに、其松に鳩三羽つゝ宿りて神霊影向の瑞ありけれは、相謀て同十八年石清水八幡宮を勧請し良昌をして別当たらしむ、 依て草庵を造営せんとて山麓を穿ちけるに、一つの穴あり人人怪しみ燈を取て内を伺へは、銅仏の阿弥陀長三寸許なるを得たり、 是八幡の本地なれはとて、則神殿に安置し、今に秘仏とすと
[中略]
東照宮 慶安元年本社御造営の時、社地の鎮守として御勧請あらせられ、延宝元禄二度の御再建にも御修営あり、
末社 氷室明神 慶安元年本社御造営の時建させらるゝ所なり、扉の金物は葵御紋を彫れり、
稲荷 小社なり、是同時に御建立あり、
若宮八幡 是も御造営の時、松平新五左衛門直次の与力同心等造立する所なり、
太神宮 春日 天満宮 子安明神 荒神 四所明神 弁財天 以上七社は慶安の度御造営ありし所にて、延宝、元禄の二度にも御修営を加へられしに、今廃して再建に及はす、
[中略]
別当放生会寺 古義真言宗、高野山宝性院末、光松山威盛院と号す、本尊不動を安す