浅草神社 東京都台東区浅草2丁目 旧・郷社
現在の祭神 土師真仲知命・桧前浜成命・桧前武成命
[合祀] 徳川家康・大国主命
本地
土師真仲知命阿弥陀如来
桧前浜成命観世音菩薩
桧前武成命大勢至菩薩

「東京市史稿」宗教編第三

浅草神社(三社権現)[LINK]

浅草寺縁起云、むかし武蔵国宮戸河の辺に兄弟の漁夫あり。 名付て桧熊の浜成竹成といふ云々、 旧居のすみ家をあらためて新構の寺とす、 彼時の土師真中知浜成竹成は今の三所権現是也。
[中略]
三社大権現。本堂の東北十七間余に在り。南向。本社三間四方。別当中顕松院。
 幣殿。二間半に三間。
 渡廊下。長二間、横一間。
 拝殿。七間に三間。三社権現額。黒地隷書金字。隨宜楽院一品公遵法親王御筆。
 石階五級。朱玉垣。東西十間。南北十三間。
 祭神。三座。 中、土師真中知(僧形立木像)。 左、桧前浜成(衣冠立木像)。 右、桧前竹成(衣冠立木像)。 東照大権現神像。中の間に安置し奉る。
[中略]
一、三社権現竹成神本地勢至菩薩。
 本尊木仏。丈壱尺五寸。立像。
 右者観音境内淡島明神社内に有之候。
[中略]
一、三社権現土師仲知本地仏
 阿弥陀如来 長壱尺弐寸、立像壱体。作不知。
 明和四年駒形町出火之節、本堂焼失仕候に付、唯今は坊中に安座仕候。
[中略]
三社権現檜前浜成本地仏、長三尺。
一、正観音木仏立像一躰。慈覚大師作。
一、三社権現神影一幅。檜前武成五十九世円道筆。

「平成祭データ」

浅草神社

由来
神社関係の古述としては「藤原惺窩文集」「本朝神社孝」(林羅山著)の二書に、三社権現に関する記述があり徳川時代の書物は大体この書の伝承をそのまま伝えているがこれは浅草寺縁起に見える浅草観音示現の伝承とほぼ一致している。
即ち推古天皇の三十六年三月十八日(陽暦四月三十日)春日うららかなる朝まだき、漁師の桧前浜成、竹成の兄弟が、浅草浦(今の隅田川)で漁労に精を出していたが、その日に限り一匹の漁もなく、投網にかかるのはただ人型の像だけで、始め兄弟は観音像であることを知らず、いく度か海中に投げ捨て、何度場所を替えて網を打っても、かかるのは不思議と人型の像だけなので、最後には兄弟も不思議に思い、その尊像を俸持して今の駒形から上陸し、エンジュの切株に安置して、当時郷土の文化人であった土師中知にこの日の出来事を語り、一見を請うた所、これぞ聖観世音菩薩の尊像にして、自らも帰依の念深き仏体であるのを告げて、諄々とその功徳、おはたらきにつき説明する所があった。
兄弟の者は始めてきく観音の現世利益仏であるのを知り、何となく信心のもようされて、深く観音を念じ名号をとなえ、吾らは漁師なれば、漁労なくしてはその日の生活にも困る者ゆえ、明日はよろしく大漁を得さしめたまへ、と厚く祈念して、翌十九日再び網を浦々に打てば、願いの如く船中に魚くづ満ちて、大漁を得、土師中知は間もなく剃髪して沙門となり、自宅を改めて新構の寺となし、さきの観音像を奉安して、供養護持のかたわら郷民の教化に生涯を捧げたというのが「浅草寺縁起」伝承の起こりとなっている。
「承応縁起」によると中知の歿した後、間もなくその嫡子が観世音の夢告を蒙り、「汝らの親は我を海中より上げて薫護せり、故に慈悲を万民に施し今日に及びしが、その感得供養の力は賞すべきなり。即ち観音堂のかたわらに神として親達を鎮守すべし。名づけて三社権現と称し、いつき祀らば、その子孫、土地と共に繁栄せしむべし」といった意味の告示があって、ここに三社権現社が創建された様になっている。
これによると三社の創建は今を去る1300年の昔ということになるが、これは少々無理の様で文中に見える「権現」の初見すら、既に承平年中(921年?937年)であり、応永縁起に於いて土師中知を阿弥陀如来の化現とし、桧前浜成を観世音菩薩、桧前竹成を勢至菩薩の夫々化現としている事からも、平安末期から鎌倉へかけて仏教普及の一つの方便として、仏が本であり、神は仏が権りに姿を現じたものである、とする権現思想が流行し出した以後に於いて、上記三氏の末孫が崇祖のあまり郷土神として祀ったものであろうと推定される。