愛宕神社 埼玉県鴻巣市原馬室 旧・村社
現在の祭神 軻遇突知命
[合祀] 天照大神・素盞嗚尊
本地 勝軍地蔵

「原馬室愛宕神社愛宕山記」

聞当此祠者鎮座于武州足立郡馬室郷。 本則将軍地蔵尊、迹則愛宕山也。 武蔵少掾藤井元国常願将軍地蔵教化尋其霊地。 一夕過馬室郷遥有火光至彼菴中投宿者有老尼為菴主、尼言汝久信将軍地蔵故今現形也、時尼変為地蔵身光明十方異光薫広野、即授十界平等印及令法久住印。 因朝帰夕敬不怠。 長治二年三月元国拝山城国愛宕山。 移神霊択定将軍地蔵出現地。 造営社殿為鎮土神矣。

「新編武蔵風土記稿」巻之百五十一
(足立郡之十七)

原馬室村

愛宕社

村内の鎮守なり、 妙楽寺の持

妙楽寺

前と同末、 愛宕山地蔵院と号す、 開山は京都智積院の三世日誉、 本尊将軍地蔵坐像台座共長三尺、聖徳太子の作、 外に薬師の像一躰あり、是も坐像にて長三寸、慈覚大師の作と云

「埼玉の神社 北足立・児玉・南埼玉」

愛宕神社

  鴻巣市原馬室2825(原馬室字赤台)

歴史

 長治二年(1105)の創立と伝えられる当社は、原馬室の鎮守として祀られてきた神社である。 その由緒は、江戸時代初期に、別当妙楽寺の法印日誉が写した「原馬室愛宕神社愛宕山記」に、次のように語られている。
 当社は、勝軍地蔵を祀るがゆえに、愛宕山と称する。 武蔵少掾藤井元国は常に将軍地蔵の教化を願い、その霊地を訪ねていたが、ある夕、馬室郷を過ぎると、遥かに火の光が見えたので、その庵に泊めてもらうことにした。 この庵主は老尼であったが、「汝は久しく勝軍地蔵を信じるゆえ、今、姿を現すのだ」と言い、地蔵に身を変え、光を広野に放ち、十界平等印と令法久住印を元国に授けた。 元国は、その後、長治二年三月に山城国(現京都府)愛宕山を拝し、その神霊を彼の勝軍地蔵が出現した地に社殿を造営して祀った。 更に、正応二年(1333)に新田義貞が挙兵した際には、その臣の世良田利長が社頭に利剣を納めて戦勝を祈願し、貞和四年(1348)には武蔵権大目となった藤井行久が社殿を修め、神田を寄進した。
 右のような経緯をたどり、当社は現在のような形を整え、地元原馬室の人々から村の鎮守として信仰されるようになった。 『風土記稿』原馬室村の項に「愛宕社 村内の鎮守なり、妙楽寺の持」と記されているのは、そうした状況を記したものである。

信仰

 主祭神は軻遇突智命であるが、当社ではその本地仏である勝軍地蔵への信仰が顕著であり、明治初年までは「愛宕山大権現」と称していた。 内陣に、馬に乗った勝軍地蔵の木像を安置しているのもこうした信仰の表れである。 この木像は、当社に残る銘札から、文政三年(1820)八月に天下太平・五穀成就・村中安全を祈願し、妙主文右衛門・組頭孫右衛門が本願人となって奉納したものであることや、当時は別当妙楽寺の住職の普鏡が祭祀を行っていたことがわかる。