「新編武蔵風土記稿」巻之二十四
(葛飾郡之五)
亀戸村
吾妻権現社
吾妻森と号す、
村内宝蓮寺の持、
社伝に云、当社は人皇十三代景行天皇の皇子日本武尊の妾橘姫命の旧跡なり、
此姫は物部連等祖大水口宿禰の孫、東夷謀叛しけれは日本武尊を大将軍とし、吉備の武彦大伴武日連等を副て是を討しむ、
同八月尊相模国より上総国へ行まさんとするに、海中暴風起りて御船を漂蕩して渡すへからす、
因て姫尊に啓て云 是必海神の祟りならん、我身を捨て御身にかはり奉らんとて浪間に飛入り逆まく水の泡と消たまひぬ、
既にして風波静まりけれは御船恙なく着岸あり、
故に其所の海上を走水と云、
それより尊夷を平け武蔵上野を巡り、西の方碓日の坂を上り東南を望み、姫をしたひて嗚呼吾妻こひしと宣ひしより、東国の惣名とは成ぬ、
姫入水の砌御身に添給ひしゆつり葉の鏡海中に沈み入しを、尊白狐神に命して取得て、後穂積家に伝ふ、
人皇八十三代後土御門院御宇穂積臣の末葉、鈴木・遠山・井出の三家、姫の御跡をしたひ奉り、正治二年庚申八月十五日彼ゆつり葉の鏡を以て神体とし、行基菩薩の十一面観音を本地とし、此吾妻森に旧跡を写し、則吾妻権現と崇め祭れり、
[中略]
末社 稲荷 真羅稲荷と号す、則本社縁起にのせる白狐神なり、金比羅を合祀す
大正11年、亀戸四丁目より立花1丁目に遷座