「山西村吾妻社縁起」
相州淘綾郡梅沢山に吾妻大権現跡をたれまします事、委細ハ口訣相承ありといへとも、又其余りを粗記録にあらハす事、左に書するごとし。
抑、人王十二代景行天皇の御宇に、東国の夷賊王命に背、関東しづかならざりけれハ、第二の皇子日本武尊を討手の大将軍として東国へさしくたし給ふ時、い勢の内宮より村雲の剣申請、尊是をはき給ふ。
[中略]
此剣大蛇の尾に有し時、常に八色の雲立おほひける故に、天の叢雲の剣と名付、い勢の国度会郡五十鈴河の水上にあがめ祭り給ふハ此剣なり。
然に此度宝剣東国へ下りたまふを、彼大蛇の亡魂道にて取かへさんため、大蛇毒蛇と成て江州伊吹山の麓にて道を要伏塞たり。
日本武尊事ともしたまハず飛越通り給ひ、尾張の国稲田の宿禰が家に着、あるじのむすめ橘姫とちぎりをむすび、姫をめしぐし駿河国迄くだり給ふ。
東夷待請原野に火を放、尊を焼殺さんとしければ、尊はき給へる剣をぬぎ、遠かたやしげきがもとをやい鎌のと鎌を持て打はらふ事のごとくと唱へ祓ひて、剣をふり給ひければ、あたりの草ことごとくなぎはらわれ、夷賊のかたへけふりなびきて尊ハ恙もましまさず。
扨こそ初ハ天の群雲の剣と申せしを、草薙の剣とハ名付けれ。
こゝにて東夷をたいらげ、舟にて渡海し給ふ処に、彼大蛇の亡魂所為にや、波風あらく海上しづかならず。
御船くつかへらんとせしかば、橘姫ミづから海底に入、龍神をなだめ申べしとて海に入給へハ、波風少しづかにして、御舟は恙もなく武蔵のみなとに着たり。
橘姫の御からハ、綾の小袖も水の上、濤淘として相州梅沢の磯よりくれハ、濤も綾淘心にて淘綾郡といふなるべし。
塩やく海士の取上ケ奉り、此山上を御廟となし奉る。
尊はむさしのみなとよりあがらせ給ひ、ちゝぶの山中へわけ入り、巌窟の中へ武具を籠置給ふ也。
されハむさしとハ、ものゝふのくらと書事も此始なりとかや。
ここより上州へ出、碓氷の峠を越給ふ時、東の方をかへりみ橘姫の事思ひ出し、吾嬬やとの給ひしより、東をさして吾妻とハ申なり。
扨こそ当社も吾妻の神と号奉る。
尊ハ信州木曽路を経て尾張の国稲田が家に着、橘姫の事猶わすれたまハず。
其頃世にかくれなき通達の士有りたるが、尊かれに仰て、橘姫の魂いづくに有とて尋てまいれとて、内海の浦より船を出し、海上はるかにのりめぐりける処に、当山に金色の光り立てば、達士此光を求て爰に至りぬ。
其時松樹に千手観音のかたちをあらハし、慈眼視衆生の効験なれハ、本地垂迹明々歴々たり。
彼松樹を影向松と名付、地を擇て松壖を建、達士もこゝにとゞまり神職を務む。
内海の浦より漕出し者なれハ、其名を内海と呼たり。
末葉歴代にながれ神職之者内海氏なり。
「新編相模国風土記稿」巻之四十
(村里部 淘綾郡巻之二)
山西村
吾妻社
吾妻山の頂上にあり、
橘比売命を祀れり、
社伝に日本武尊東征の時、橘媛当国の海底に投じて風浪を静め給ふ、
後七日を歴て、海汀に流寄所の櫛を得て社内に納む、
或は衣袂をとりて此山に埋め祀りしなど云り、
本地仏千手観音(長一尺許、天平中行基此辺遊化のとき、神託を得て此像を刻み、神殿に納むと云)を神体とす、
寛永三年九月、再興の棟札を納む、
例祭正月六日(十六・十七の両日を期す)の両度なり、
腹病・痞積に悩者祈請するに験ありと云、
等覚院持、下同じ、
[中略]
△鐘楼
鐘は寛永八年の鋳造なり(梅沢山千手院四阿大権現云々と鐫る、按ずるに、千手院は古当社の別当なり、後廃寺となることは等覚院の條に弁ず)、
△二王門
寛永十年、別当千手院頼栄創建せしが、近世破壊の後再建ならず
三武社
日本武尊・若武彦命・武日命・七掏脛命の四座を祀り、蔵王金毘羅を相殿とす、
此山は日本武尊東征のとき、行宮を設けし地なりと伝ふ、
本地不動(座像長二尺余、弘法手刻して、弟子杲隣に与へし像なりと伝ふ)を安ぜり、
例祭は正六九の三月、十六七両日に行ふ、
寛永十四年の鰐口を掛く、
瘡疾を患る者祈誓をかくと云
吾妻神社境内に三武社の石碑が残る。
等覚院
梅沢院東光寺と号す、
古義真言宗(足柄下郡国府津村宝金剛寺末)、
往昔、千手院・東光寺・神願寺、と号せし三寺あり、
千手院は村内吾妻社の別当にして、天平中行基の創建なり、
[中略]
△観音堂
正観音(長三尺、行基作と云)を置く、
是其昔、廃千手院(廃跡今字松ヶ窪に在)に在し所なり、
抑千手院は、天平中行基東遊の時、村内吾妻社の神託に因て、千手の像を刻し、彼社殿に収、
別当坊を建て即千手院と号し、正観音の像を刻して本尊とす