別所神社 長野県上田市別所温泉 旧・村社
現在の祭神 伊弉諾尊・伊弉冊尊・速玉之男神・泉津事解之男神・素盞嗚尊
本地
伊弉諾尊阿弥陀如来
伊弉冊尊十一面観音

「善光寺道名所図会」巻之五

 それ当所七久里温泉の由来を尋ぬるに、人皇十二代景行天皇の御宇、日本武尊包東夷征伐したまふ砌、この地を通御したまひけるに、南方の山下に煙気畳々と立ち昇りければ、如何なるゆゑならんとしばらく見たまふところに、一人の老翁忽然と出で来り尊に告げて曰く、この地に七つの温泉あり。 その性異り、これに浴せん者七種の病苦を離れ、寿命延長ならん。 君これを聞きたまふべし。 吾は大己貴なり。 努々疑ふべからずとて失せたまふ。 尊奇異の思ひをなし、山の麓を尋ね七ヶ所の温泉を求めて浴し、従卒をも浴さしめ試みたまふに、病苦にかかれる者ども速やかに平癒しければ、惣名を七苦離の温泉と号けたまひ、大己貴命をば温泉明神と崇め祭りたまふ。 なほ今我が開闢この温泉久しくこの里に繁栄たるべしと誓ひたまひ、七久里温泉と書き遺したまひしとなり。 またこの地に二つの高山あり。 伊弉諾・伊弉冊の二尊影向したまひ、男女の道を教へ登りたまひし頂なることを尊聞こしめされ、男神嶽・女神嶽と号け、社を嶺に立てたまふ。 この二山に各御手洗あり。 その流の落ち合ふ川を相染川と呼ぶ。 両嶽の神祠嶺を隔つれば、これを合はせ祀りて結神と名号たまふ。
[中略]
 人皇五十三代淳和天皇の御宇天長二乙巳年、この地東面の山下より毎夜光明天に昇り、遂に大坑あらはれ火煙を吹き出だし砂石を飛ばしければ、里民怖れ惑ひ四方に散乱す。 時の守護、事の子細を奏聞ありけるに、天文の博士に考へさせたまふところ、霊仏現じたまはん奇瑞ならんと奏す。 ここによつて中納言安世に勅命ありて、当時徳行の聞こえある円仁・明福の両師を伴ひ彼の地に下向し、利世安民の祈誓あるべしとなり。 これによつて両師、安世もろとも来着したまひ、火坑にむかひ顕密の修法ありしかば、第七日目十月二十五日にあたつて、火煙消滅し坑中より薬師如来・観音薩埵の霊像紫雲に乗じ出現したまひ、南方に飛び遷り止まりたまふ。 尊像出現の折から坑中より黒水激沸し、一体六面の鏡石あらはれ、六道四生の相を示せり。 安世都に帰り、実も火坑変成池の悲願空しからざる奇瑞、逐一天聴に達せしかば、帝叡慮麗しく、国守に勅して良木工匠をえらみ、重ねて大師に勅してこの地に仏閣を営ましめたまふ。 時に火坑出現の観音薩埵、円仁大師に夢の御告あり。 我を北面に安置せよ。 我北に向はん事、北斗の千載に等しからん事を守らんとなり。 大師夢覚め奇瑞の思ひをなし、すなはち大悲閣を北面に建立し、明福大師は瑠璃殿を造立して薬師如来を安置したまふ。 天長三丙午十月二十五日、入仏供養なり。 相次いで長楽・常楽・安楽の三ヶ寺再建して台・密・禅三宗に表し、かつ両嶽尊神の本地堂を男神岳に造立し、弥陀如来・十一面観音を安置して嶽の御堂と称す。 また正観音・馬頭観音の堂を建立して岩谷堂と号す。 次に二尊出現の火坑のうへに宝塔を造営し、諸師来集し金銀泥の一切経を書写し宝塔へ納めたまふ。 山内の鎮守には、江州坂本日吉山王の内八王子権現を勧請したまふ。 七久里温泉も薬師観音示現によつて再興し、温泉明神・結の神の社等を再建し、勅使を始め両師温泉に浴したまひしより、また温泉の名世に高く聞こえけり。
[中略]
 足利将軍義満公治世、海野氏台命を蒙り諸堂社を再建し、また神託によつて両嶽の里宮結の神社を今の地に遷し、熊野三社権現と改め祭る。 その後天文・永禄の頃、甲越数度闘戦に及び、諸堂社兵火の為に荒廃す。 これによつて諸人志を寄せ再建しけるに、やうやく四海泰平の化に趣き、元和年中また真田侯諸堂社を再建したまひける(以上、『別所七久里温泉由来記』を抄出す)。
[中略]
 出浦郷別所名所旧蹟(中世海部郷と云ふ)
 大谷諏訪明神 例祭三月酉の日
 下宮伊豆権現
 横吹滝 箱根権現の神手洗の流なり
 滝入大山祇社 例祭十月十日
 堂平 両岳尊神の本地堂の旧跡にて、北向。山奥の院なり
 岩谷堂 正観音・馬頭観音。縁日二月十七日
 塩水 塩気の水湧き出ずる。この辺に耕す処の田はこの流を用ゆ。これをしほ田といふ
 鳶巣香取明神 この下の沢を甲沢といふ。すべてこの辺を内山と云ふ
 大峯鹿島明神 この下に剣が尾根といふあり。その沢を地獄谷といふ
 媒岩 この上に女神通ひぢの橋あり。両湯本へ下り坂なり
 蓮華山
 観土山 観土院旧跡
 浴室御茶屋旧跡 大師湯の西の方にあり
 温泉薬師瑠璃堂 北面に温泉あり
 温泉明神社 祭神大己貴命・少彦名命合殿
 北向山大悲殿厄除千手観世音 護摩堂・秩父堂・毘沙門堂・男体明神。縁日正月十七日・二月十七日・三月十七日・七月九日・十日・十月二十五日。毎歳二季彼岸ノ中日開扉回向。大縁年乙巳年、小縁年己午年
 七久里権現 寿命延長の守り神なり
 男神嶽 伊弉諾尊を勧請。本地阿弥陀如来
 九頭竜権現 当山の守護神とす。御手洗あり
 例祭六月十五日、往古より当日未明に神主並に郷中登山、三丈余の長幟、郷中家数に隨ひ立て並べ、神酒を供へ御領主御武運長久・郷中安全・五穀豊穣を祈り、神酒を開き、それより下山し女神嶽の麓なる大湯の地に立て並べ、女神嶽の尊神へ供へ、また神酒を開くを式とする(むかしは女神岳への頂上までのぼり供へけるが、大樹茂り幟立てながら登りがたきゆゑ、ふもとに立てならべこれをそなふるとなり)。 例祭幟を多く献ずる由来を尋ぬるに、往古累年の旱魃にて山川の流絶え、井水乾き里民渇して死に及ばんとす。 よつて男神・女神の両岳へ祈誓し、大雨速やかに下し民の患ひを救ひしたまはば里民あらん限り献ぜんとて、長き布を張り竜神の形を表しこれを立て並べ祈りけるに、男神岳の上に当りて九頭竜の形なる雲現じ、女神岳のうへに覆ふと斎しく、大雨車軸を流すがごとく降り下る。 これよりして千載の今にいたり、幟を献ずる事毎歳怠ることなし。 九頭竜権現を男神岳の守護神とする事これによれり。
 女神嶽 伊弉冊尊を勧請。本地十一面観世音
 大天狗小天狗 当山の守護神なり。御手洗あり
 例祭六月十五日
 氷沢三島明神(両岳の間にあり)三冬暖気にして雪氷なし。夏土用に氷あり 例祭十月二十七日
 幸神橋 二柱の神影向したまひ男女の道ををしへたまひし所を帯解といふ
 相染川 両岳の御手川落ち合ふ所よりすゑずゑまで相染川といふ
 北向山観音院長楽廃寺 大悲殿より乾の方に廃地あり。三楽寺のその一なり
 鏡が池 むかし火坑より出でし石鏡、向かふ人には善悪の機縁にしたがひ六道四生の相を示す。誠信の輩には死亡せし者の影見えて迷ふ人多きゆゑ、石鏡をこの池へ沈めしよりこの名あり
 西行戻橋 冬くだ立夏枯といふ俚言あり
 美欄樹 いにしへ相染橋の辺りにありしが、洪水にて神木を押し流しこの所に止まる。後年枯れて今は植継の木なり
 御殿沢 御殿の旧地なり
 崇福寺護国院安楽寺 本尊釈迦如来。今は曹洞宗
 祖師堂
 八角四重塔 維茂将軍の再建
 九重石塔 平維茂公の墳墓なり。東の沢にあり
 北谷祇園社 祇園会、六月朔日より同じく十四日まで
 熊野宮並びに十六社 神主斎藤
 金剛山照明院常楽寺 大悲院別当、天台宗。本尊阿弥陀如来
 多宝塔 北向観音火坑出現の旧跡
 三重石塔 温泉薬師火坑出現の旧跡。ともに山内にあり
 正一位熊野三社大権現 例祭三月三日・同十五日・六月九日
 幕宮正八幡宮 池あり
 黄金山竜田明神 いにしへ黄金の出でし山とて、朝日映じ夕日かがやくと云ふ。またここにこがねの淵と云ふありし
 大塚 維茂将軍の大家老といひし人のつかといふ
 この外末社の二十二社並びに六十坊の旧跡ありといへども、いたづがはしきをもつて略しぬ。
明治11年、熊野三社大権現を別所神社と改称