稲荷神社 埼玉県春日部市備後西5丁目  
現在の祭神 豊受姫命
本地 十一面観音

「埼玉の神社 北足立・児玉・南埼玉」

稲荷神社

  春日部市備後西5-6-1(備後字須賀)

歴史

 「子育ての稲荷様」として信仰が厚い当社は、豊受姫命を祭神とし、備後の西にあたる須賀の地に奉斎されている。 『風土記稿』備後村の項を見ると、村の鎮守である香取神社に続いて、「稲荷社二宇 一は勝林寺持、一は村民の持」との記載があるが、ここに載る「勝林寺持」の稲荷社が当社のことである。
[中略]
この当社の創建については、勝林寺二十三世の浄誉が元文六年(1741)に古書を筆写して作成した「鎮守縁起」によれば、次のように伝えられている。
 昔、この須賀の地は、海中の小島であった。 そのころ粕壁の浜川戸に館を構えていた春日部治部少輔という領主のところへ、 「島から不思議な光が差し、海中を照らすこと一年にも及ぶので、魚が逃げてしまい、漁ができなくて困っている。何とかしてもらえないだろうか」 と訴えてきた者があった。 そこで、領主が島を調べてみると、一本の枯れ木の朽ちた所から観音の像が見つかった。 不思議に思った領主は、この像を館に持ち帰り、城中に祀って拝んでいた。
 ある時、館を訪れた旅の僧にこの観音像を見せると、僧は観音像の由来について 「この本尊は、昔、弘法大師が唐の国から持ち帰り、備後の国に安置したものだ。その後、備後の国に兵乱が起こり、国中が不穏となたっため、難を避けて東国へ移る者が多くあった。寺の人たちもこの像を奉じて船に乗り、東国に下った。ところが、途中で暴風雨に遭って多くの船は難破したが、この像を奉じた船だけは何の禍のなく無事航海を終えることができた。皆は、これは尊像の御利益だと有り難がり、尊像を拝し奉ろうとしたところ、像はたちまちどこへともなく飛び去ってしまったと言われている。これはまさしくその尊像に違いない」 と語った。 その後、領主は夢で「須賀島の稲荷を祀れ」とのお告げを受け、この社を建立するに至り、尊像にまつわる話の備後国にちなんで村名を備後としたという。
 同書によれば、この話は建暦元年(1211)の出来事であり、以来、当社は王子稲荷・佐野稲荷と並ぶ関東三大稲荷の随一として広く信仰されるに至ったと伝える。 また、本地仏の十一面観音は、神仏分離後は勝林寺に移され、毎年初午の当日に同寺で御開帳が行なわれている。 現在、内陣には宝永五年(1708)銘の神鏡と狐に乗った荼枳尼天像が安置されている。 この荼枳尼天像を納めた厨子には「正一位育子稲荷大明神影□ 文化三丙寅正月二十二日遷宮 稲荷山二十一世中興梁誉代」との墨書があり、このころ本殿の再建がなされたことがうかがえる。