防府天満宮 山口県防府市松崎町 旧・県社
現在の祭神 菅原道真
本地 十一面観音

「防府天満宮古縁起」

菅原のおほひまうちきみは高槐大樹の位をそなはりて栄華を詩書の林にほとこし、編柳截蒲の学に長して才幹を文雅の囿にあらはれ給へり、 朝家の賢相風月の本主におはしましゝかは、聖上万機の政をとふらひましまし、儒中百家のほまれと、あふきたてまつりしかとも、無実の罪は権化ものかれ給はす、 有為のことはりは大聖もまぬかれぬ御事なれは、延喜のはしめのとし、たちまちに三台の相をあらためて太宰の帥にうつされ給、都府楼の月の光三とせの秋やゝつもり、洛陽宮の花の色ふたゝひ春にあふことなし、 梵釈四王にうたへて大自在の身をけむし、仏天三宝にいのりてあら人神とあらはれ給、一時のうちに三界をめくり給へり、 たかく太相国の贈官をたてまつりますます正一品の位階をさつけらる、
[中略]
観音本地の利益は十一面のかたちを表し、和光同塵の結縁は大慈大悲の誓をおこし給へり、 されは御託宣の記には我常の住所は済度衆生界なり、毎日に帝釈宮、閻羅王宮、大梵天宮、大唐の長安城、西明寺、青龍寺、日本王城、諸国所々の帰依の別宮に往詣して衆生のねかひを見つる也云々、
[中略]
抑宰府にうつされ給しみちすからも、旧里にとゝめをきたてまつりし御事のみ恋慕の御心の色ふかくならせ給ひしかは、朝夕なれむつひ給へる御中はたかひにはなれかたく、老少ちかくめしつかはるゝ眷属はいかにむつましくおほしめしけむ、さる程に防州勝間の浦につかせ給ける、 ひと夜の御たひねあやしのあまのとまや、御目なれぬ御すまゐたとへむかたなきさまなれは、いとゝつきせぬ御泪にかきくれさせ給へり、 此地いまた帝土をはなれす、願は居を此所にしめむと御ちかひありけるにや、 光明海上に現し、瑞雲洒垂山の峯に聳て奇異の瑞相化現しけれは、時の国司をはしめて渇仰の心肝に銘し、随喜の思ひ感を催して海浜にのそみて是を拝見しあへり、
其時国司宝殿を建立し、玉扉をひらきしより、是を松崎の社と号せり

松崎散歩(歴史の面影)[LINK]より

防府天満宮[LINK]

菅公廟

 昌泰4(901)年正月、太宰権帥に左遷された菅公は、あわただしく西下された。 その途次、周防勝間が浦に立ち寄られたことから、防府天満宮の歴史が始まる。
 菅公は、延喜3(903)年2月25日なくなる。社伝は当時を次のように伝えている。
 「身は筑紫に果つるとも、魂魄は必ずこの地に帰り来たらん」と、勝間の浦に神光が現れ、酒垂山に瑞雲がたなびいた。 時の国司たちこれを拝見し館に公の霊を祀り翌年8月松崎の地に宝殿を建立した。 扶桑菅廟最初という。

天神本地観音堂

 本尊は十一面観音菩薩。
道真公の母はこの本地観音を信仰され、からだの弱かった道真公の成長をこれに祈られたという。 堂は俊乗坊重源の創建と云われる。 大内弘世の世に周防国三十三番観音巡礼二十四番札所となる。
 社坊酒垂山満福寺抱えだったが、明治の初めに神仏分離で社坊が廃され、天満宮西隣の霊台寺(現満福寺)の抱えとなった。