千葉神社 千葉県千葉市中央区院内一丁目 旧・県社
現在の祭神 天之御中主大神
[配祀] 経津主神・日本武尊
本地 十一面観音 七仏薬師

『源平闘諍録』

妙見菩薩の本地の事

又兵衛佐の言ひけるは 「侍共承るべし。今度千葉の小太郎成胤の初軍に先を懸けつる事有り難し。勲功の賞有るべし。 頼朝若し日本国を打ち随へたらば、千葉には北南を以つて妙見大菩薩に寄進し奉るべし。 抑妙見大菩薩は、云何にして千葉には崇敬せられたまひけるにや。 又本躰は何の仏菩薩には御座しけるにや」と。
常胤畏まつて申しけるは、 「此の妙見大菩薩と申すは、人王六十一代朱雀の御門の御宇、承平五年(乙未)八月上旬の比に、相馬の小次郎将門、上総介良兼と伯父甥不快の間、常陸国において合戦を企つる程に、良兼は多勢なり、将門は無勢なり。 常陸国より蚕飼河の畔に迫め着けられて、将門河を渡さんと欲するに、橋無く船無くして、思ふ労ひける処に、俄に小童出て来たりて、『瀬を渡さん』と告ぐ。 将門此れを聞きて蚕飼河を打ち渡し、豊田郡へ打ち越え、河を隔てて闘ふ程に、将門矢種尽きける時は、彼の童、落ちたる矢を拾ひ取りて将門に与へ、之を射けり。 亦将門疲れに及ぶ時は、童、将門の矢を捕つて十の矢を矯げて敵を射るに、一つも空箭無かりけり。 此れを見て良兼、『只事にも非ず。天の御計らひなり』と思ひながら、彼の所を引き退く。 将門遂に勝を得て、童の前に突い跪き、袖を掻合はせて申しけるは、『抑君は何なる人にて御坐すぞや』と問ひ奉るに、 彼の童子答へて云はく、 『吾は是れ妙見大菩薩なり、昔より今に至るまで、心武く慈悲深重にして正直なる者を守らんと云ふ誓ひあり。 汝は正しく直く武く剛なるが故に、吾汝を護らんが為に来臨する所なり。 自らは即ち上野の花園と云ふ寺に在り。 汝若し志有らば、速やかに我を迎へ取るべし。 吾は是れ十一面観音の垂迹にして、五星の中には北辰三光天子の後身なり 汝東北の角に向かひて、吾が名号を唱ふべし。 自今以後、将門の笠験には千九曜の旗(今の世に月星と号するなり)を差すべし』 と云ひながら、何ちとも無く失せにけり。 仍て将門使者を花園に遣はして之を迎へ奉り、信心を致し、崇敬し奉る。 将門妙見の御利生を蒙り、五ヶ年の内に東八ヶ国を打ち随へ、下総国相馬郡に京を立て、将門の親王と号さる。 然りながらも、正直諂侫と還つて、万事の政務を曲て行ひ、神慮をも恐れず、朝威にも憚らず、仏神の田地を奪ひ取りぬ。 故に妙見大菩薩、将門の家を出て、村岡の五郎良文の許へ渡りたまひぬ。 良文が伯父為りといへども、甥の将門が為には養子為るに依つて、流石他門には附かず、渡られたまひし所なり。 将門、妙見に棄てられ奉るに依つて、天慶三年(庚子)正月廿日、天台座主法性房の尊意、横河において大威徳の法を行ひて、将門の親王を調伏せしむるに、紅の血法性房の行ふ所の壇上に走り流れにけり。 爰に尊意急ぎ悉地成就の由を奏聞せしかば、御門御感の余りに、即ち法務の大僧正に成されにけり。 然妙見大菩薩は、良文より忠頼に渡りたまひ、嫡々相ひ伝へて常胤に至りては七代なり」

「栗栖郷妙見大菩薩縁起」

妙見菩薩御本地内証之事
倩、妙見大菩薩の内証を鑑みるに、則北斗七星也、或九曜星とも号す、 御本地は是七仏薬師の一体分身也、 以下略之、
[中略]
鎮座千葉事附金剛授寺開基事
千葉介常重大椎に居城ありけれとも、これも分内狭く住居不可然とて、下総国千葉郷要害宜しき所也とて大治元年居城を構へ、一族郎党相集て其数一万六千余軒也、 かくて妙見菩薩の神居に可然所を求めけるに則同所に北斗山金剛授寺といふ寺有、 これこそ可然霊地なりとて同大治元年九月十五日に大椎より遷し奉る、 抑金剛授寺と申は、人皇六十六代一條院の御宇に当て、主上御心地例ならせ玉はす、洛中洛外の霊仏霊社にをひて高僧貴僧各大法秘法ををこなはせけれとも其しるしなし、 然るに下総国千葉といふ所に覚算阿闍梨といへる碩学博智の僧あり、 此事叡聞に達し、則御悩の御祈願をいたすへきよし綸命を蒙りしかは、則北辰供を修し申されける、 祈願の丹誠顕れ御悩平愈ありしかは、叡感のあまり大僧正に任せらる、誠に田舎稀有の賞官なり、 即下総国に勅願所を経営し北辰菩薩を安置せしむへき覚算かさねて勅命を承て、長保二年九月十三日開基せり、北斗山金剛授寺と号す、 されは御神体国々を遷らせ玉ひ、今常重に至て是に鎮座なる事誠に不思議の宿因也、 是よりして神居も末代まてかはらせ玉ふ事なし

常重堂社寺院造堂之事附惣代七社之事
常重此事を聞て賛嘆不斜、さらは妙見堂を造営いたすへきとて先本堂を中央に建て御神体を安置し奉り、鎮守には稲荷大明神・清瀧大権現・石神大明神・摩利支天・弁才天・天満天神・山王権現・二十八宿堂・三十六禽堂等末社を本堂の東西に造立す、 又院内別に神宮寺薬師堂を建て日所山満願寺と号す、本堂より南方に当れり、 院外又別に虚空蔵堂を営み、月所山光明寺と号する事は本堂本院を北斗山金剛授寺と号するに依て本院と合て日月星に三辰を表せるものなり、 院内本堂の左右に金剛授寺並に六箇の小院を営む、是又本院と並て北辰の七星あるにかたとれり、 就中総代七社の明神と申は院内の総鎮守として、則院内神宮寺日所山満願寺の側に神社を建立す、 是則往古妙見菩薩へ神忠を尽せし人々を明神に祝ひ奉るものなり、 先陸奥守良文・平将門・上野次郎忠頼・下総権介忠常及染谷川より倶奉せし粟飯原文次郎常時・巫女二人を並て総代七社と申なり、 是常重に及て始て造営ありけり

丸井敬司「『源平闘諍録』の「妙見説話」と『紙本著色千葉妙見大縁起絵巻』の成立について」[PDF]

 さて、この三世紀後、千葉妙見宮では妙見の縁起である『紙本著色千葉妙見大縁起絵巻』が制作された。 この絵巻は、千葉氏の守護神であった「千葉妙見」の由来を「絵」と「詞書」で述べたもので、妙見の「本地」や「内証」 からはじまり上野国群馬郡花園村七星山息災寺の「羊妙見」が染谷川に示現する有様、良文とその後胤である千葉氏が「妙見」を千葉城内の妙見宮に還座するまでの経過、結城の合戦などその間に起こった様々な妙見の霊験、更に千葉城内に祭られていた妙見像が千葉城落城とともに妙見宮の別当寺であった北斗山金剛授寺尊光院(現、千葉神社) の座主の客殿に移された後、客殿の火災によって仮屋に移されていた妙見の神体を新たに建立された妙見堂に還宮するまでの記事で終わっている。
 この縁起の主な主題は「染谷川合戦」と「結城野合戦」であるが、この内容は『源平闘諍録』の「妙見説話」である蚕飼河合戦と結城浜合戦をベースとしたことは確かであり、その起源は鎌倉時代の中期にまで遡る。 しかし、『源平闘諍録』の「妙見説話」と『紙本著色千葉妙見大縁起絵巻』を比べてみると登場人物、合戦の場所、妙見の本地などで大きな違いが生じている。 この違いは前者が登場人物を将門としているのに対して後者は千葉氏の祖良文としていること、合戦の場所が前者は常陸の蚕飼河とされているのに対し後者は上野国の染谷川とされていること、また、本地は前者では十一面観音としているのに対して後者は、七仏薬師としていることなどである。

丸井敬司「『紙本著色千葉妙見大縁起絵巻』と伊勢地方の妙見信仰」[PDF]

 千葉氏の守護神とされた妙見菩薩は、北極星や北斗七星を神格化されたものであった。 この霊威譚として作られたのが「妙見説話」であったが、これには鎌倉時代中期に制作された『源平闘諍録』(以下、『闘諍録』という)や戦国末期に制作された『紙本著色千葉妙見大縁起絵巻』・『千学集抜粋』(以下「戦国期の妙見説話」という)などに登場する。 この「妙見説話」の妙見の本源・本地については、密教諸流派が関った複雑なものとなっているが、大きく分けると 本源については北極星と北斗七星があり、本地については観音(十一面観音)・薬師(七仏薬師)、仏眼・八字文殊・定光仏補處の菩薩の五伝がある。
 先に述べた『源平闘諍録』の「妙見説話」では、本源を北辰(北極星)とし、本地を十一面観音とされているが、密教諸流派の中で本源・本地を北辰・十一面観音としているのは園城寺の妙見信仰の特徴である。 一方、「戦国期の妙見説話」は、本源を北斗七星、本地を七仏薬師としている。 この本源・本地を北斗七星・七仏薬師とする思想は、台密山門派の影響の強い『渓嵐拾葉集』と東密系の神道書である『霊気記』・『神代巻秘訣』に登場する。
 このように「妙見説話」の本源・本地は『闘諍録』と戦国期の「妙見説話」では大きな隔たりがあるが、これらが千葉妙見の別当寺であった北斗金剛授寺尊光院(以下『尊光院』という)で制作されたものであることからすると鎌倉時代中期から戦国時代後期に至る間に本源・本地が大きく変わったことになる。