近野神社(湯川王子・石上王子・近露王子を合祀) 和歌山県田辺市中辺路町近露 旧・村社
現在の祭神 大国主神 <金刀比羅神社>
[配祀] 天児屋根命・丹生都比売命・天照大御神・誉田別命(応神天皇)・宇賀霊神・菅原道真・軻遇土神・素盞嗚尊・見明之明神
本地
湯川王子陀羅尼菩薩多羅菩薩
石上王子文殊菩薩
近露王子精進波羅密菩薩

「熊野山略記」巻第二(新宮)

礼殿執金剛童子、本地弥勒菩薩、智証大師顕し給ふ。
湯峯金剛童子、虚空蔵菩薩、婆羅門僧正顕し給ふ。
発心門金剛童子、大白身観自在菩薩、麁乱神降伏の躰也。
 此神は三山に各顕御す者也。
湯河金剛童子、陀羅尼菩薩。
石上新羅大明神、文殊、香勝大師垂迹。
 湯河石上二大明神は、新羅国の神也。
地津湯金剛童子、精進波羅密菩薩

滝尻金剛童子、不空羂索、慈覚大師顕し給ふ。
切目金剛童子、義真和尚顕し給ふ、十一面観音。
藤代大悲心王童子、千手垂跡。
稲葉根、稲荷大明神、新宮、阿須賀一ツ垂迹也。
飛鳥大行事、大宮、大威徳明王、六頭六面六足、魔縁降伏の為也。
摩訶陀国にては権現の惣後見也。 飛鳥・稲葉根稲荷は同躰也。

「大菩提山等縁起」

本宮礼殿執金剛童子(智証大師顕御躰也) 本地弥勒菩薩 右手三古取、印云々、左手開押、右足モクリ、赤色身也、
湯峯金剛童子(婆羅門僧正顕御躰) 虚空蔵菩薩垂跡 左蛇取、棒上、黄衣着、右手□取、
発心門金剛童子 大白身菩薩垂跡 左手三古印、右中指無明指甲トル、白衣着、
湯河金剛童子 多羅菩薩垂跡 左手三古取、右棒モツ、赤面色、紺衣着、
石上新羅国神(智証大師語言云々) 文殊垂跡 老大臣形 右手 ス尾取、スキエホシキタリ、
地津湯童子(安恵参顕御坐) 精進波羅密菩薩 青衣着 右手ハウツク、髪巻上形川立躰也

滝尻童子(慈覚大師参顕給) 不空羂索垂跡 黄躰童子 右剣取、左手小児ササク、
稲葉根 稲荷神形□青水干白袴着 左肩稲荷右手杖ツク、
切目金剛童子(義真和尚返了) 十一面垂跡 黒炎躰 右蓮花形棒取、左念珠モタリ、左足□右コフラヲフム、
藤代大悲心王子 千手垂跡 形童子ヒツラ、左右手取尾モツ、吉形也、

「両峯問答秘鈔」[LINK]

問云、熊野道中九十九所王子垂跡起如何。
答云、夫九十九所王子者、大師先徳参詣之時為守護随来神也。 而石上王子者、智証大師参詣之時為守護神也(新羅大明神云云。本地文殊)。 於石上顕御時誰人哉大師問給。 則彼神答、然者垂跡此所守末代衆生曰。 仍留御則奉号石上王子。 自余之王子垂跡之濫觴皆以准知之而已。

「大和・紀伊 寺院神社大事典」

湯川王子

 道湯川の中央部、熊野街道中辺路の傍に跡地がある。 熊野九十九王子の一つで准五体王子(「熊野縁起写」仁和寺蔵)。 温河・湯河・内湯とも記される。 県指定史跡。 「中右記」天仁2年(1109)10月25日条に「内湯参王子奉幣」とある。 「後鳥羽院熊野御幸記」建仁元年(1201)10月15日条には「今日王子湯河」とある。 本地は陀羅尼菩薩(寺門伝記補録)。 近世は「続風土記」に「若一王子社、境内周二十四間、村中にあり、社地に七抱の欅あり」と記され、道湯川村の産土神として祀られた。 明治42年(1909)近露(現中辺路町)の近野神社へ合祀されたが、同8年に再建した社殿はそのまま残し、祭祀を続けてきた。 しかし道湯川が廃村になって以後社殿も倒壊し荒廃した。

岩神王子

 岩神峠に跡地がある。 熊野九十九王子の一つで、石上・石神とも記される。 「中右記」天仁2年(1109)10月25日条に「次石上之多介、参王子許」とある。 「後鳥羽院熊野御幸記」建仁元年(1201)10月14日条に、参拝した王子名を並べたうちに「イハ神」とある。 当王子は新羅大明神とされ、本地は文殊菩薩(寺門伝記補録)。 「熊野詣紀行」に「岩神王子、大木の陰にあり小社也。破損して戸ひらもなく、左右後のかこひ板さへ損してなし」とあり、近世には祠のあったことが知られる。 しかし天保(1830-44)頃には退転し、「続風土記」に「近年まで社ありしか今は社も印もなく、唯峠の北の方少し平なる処を社の旧址と云ふ、毎年祭日旧址に神酒を備ふ」とある。

近露王子

 近露の中央部、日置川の左岸熊野街道中辺路に面して跡地がある。 県指定史跡。 熊野九十九王子の一つで、 正中3年(1326)以前の成立とされる熊野縁起(写、仁和寺蔵)に准五体王子と記される。 本地は精進波羅密菩薩(寺門伝記補録)。 「中右記」天仁2年(1109)10月24日条に「渡近津湯之川祓、参近津湯王子奉幣」とある。
[中略]
当王子で行う垢離祓について「諸山縁起」に「近津湯の祓は、現に不浄を祓ひ、水清浄に成る」と見え、熊野縁起は「近露の水ハ祓現世不浄」「近津ノ河ノ上大ナル面広石アリ。彼石上に礼殿金剛童子一万十万毎日三時御影向云々。然者彼河ノ水ヲ秘事トス」と口伝を説いている。
 近世は「熊野詣紀行」に「近露王子社。社の外さやわらぶき也」とあり、「続風土記」は若一権現社として「境内周四十間、村中にあり一村の産神にて神体木像なり、御幸記に近露王子とあるは是なり、社前に芝ありて頓宮の跡と云ふ 」と記す。 土地では上宮ともよび、明治になっても村社王子神社として三間三尺四面の社殿が鎮座していたが、明治29年に壊れ、明治42年近露の近野神社へ合祀された。
明治41年、金刀比羅神社に村内の王子神社(大阪本王子・近露王子・比曽原王子・野中の継桜王子・中ノ川王子・小広王子・岩上王子・湯川王子)・春日神社・丹生神社・八藩神社・稲荷神社・下永井八幡神社・大畑八幡神社・同湯川の王子神社・地主神社を合祀。 翌年、近野神社と改称