千勝社 埼玉県久喜市本町6丁目 旧・村社
現在の祭神 天手力雄命
[合祀] 誉田別命 <八幡社>・加具土神 <愛宕社>・事代主命 <三島社>・宇迦之御魂命 <稲荷社>・菅原道真 <天神社>・熊野夫須美神・御子速玉神・家津御子神 <熊野社>
本地 虚空蔵菩薩

「埼玉の神社 北足立・児玉・南埼玉」

千勝神社

  久喜市本町1-9-65(久喜市字荒鎌)

歴史

 当社は二代目古河公方足利政氏の勧請と伝える。
 室町幕府を開いた足利尊氏は関東を治めるため、鎌倉に関東公方を設置した。 しかし、六代目関東公方足利成氏は、幕府と争いとなり鎌倉の関東管領と関東を二分した。 成氏は康正元年(1455)に下総古河を御座所としたことから古河公方と呼ばれた。
 その子政氏は、明応六年(1497)に公方を継いだが、子の高基との確執から争いとなり、ついに実権を失った。 そこで政氏は永正十四年(1517)に領地であった当地に館を築き隠棲した。 当社は、館の正面に延びる当時の馬場と思われる約200メートルのまっすぐな道の先に祀られた。 また、館の裏鬼門の位置には、八幡神社が祀られた。
[中略]
 江戸期は館(後の臨臨済宗永安山甘棠院)に隣接する真言宗薬王院光明寺が別当を務めていた。

信仰

 当社の内陣には、江戸期まで懸仏が奉安されていた。 この懸仏は、虚空蔵菩薩像が打ち出され、縁に「延宝六戊午年(1678)九月吉日光明寺法印隆尊」「武州埼玉郡久喜惣鎮守千勝大明神御正躰」の銘があり、裏に「千勝大明神 祭神手力男命 本地虚空蔵」と墨書がある。 これにより、江戸初期には現在と同じ天手力男命を祭神と認識しており、祭神の本地仏を虚空蔵菩薩として光明寺の僧によって祭祀の行なわれていたことがわかる。 しかし、明治初年の神仏分離令により当社から光明寺に移され、現在、同寺本堂に安置されている。
平成11年5月、現在地に遷座