道明寺天満宮 大阪府藤井寺市道明寺一丁目 旧・村社
現在の祭神 菅原道真
[配祀] 天穂日命・覚寿尼公
本地 十一面観音

道明寺[LINK]より

明治以前の道明寺[LINK]

寺伝による当寺の開創は、土師八嶋が氏神である天穂日命を祀り、聖徳太子が開基となり、八嶋が協力して自身の屋敷を提供して、東西120歩、南北220歩の地に、南大門、三門、五重塔、金堂、講堂等の伽藍を建立し、土師氏が檀越となった(現天満宮南側の平地)。
のちに白山権現、稲荷大明神二社を造営した。 時代が下り、土師氏の子孫である菅原是善の妹である覚寿尼が入寺し、甥の菅丞相(菅原道真)の帰依深く、しばしば当寺を訪れた。 菅丞相三十六歳の時に十一面観音を彫刻し、四十歳の時には五部大乗経を書写した。
それを納経した場所に、謡曲『道明寺』で有名な木げん樹が自生した。 延喜元年、菅丞相五十七歳の時、太宰府への左遷の途次、当寺に立ち寄り、覚寿尼に決別し仏舎利五粒を残し、自像を彫刻し、鶏鳴に驚き出立した。 延喜三年、菅丞相が太宰府で薨去し、遺品が送られ、今日これらの品は天満宮に伝えられている。
その後、講堂の後方に神祠を建て、自刻の像を安置し御神体とした。 そして土師寺を道明寺と改めたとのことである。
[中略]
土師氏の氏寺として草創され、併せて土師氏の氏神を祭祀する天穂日社と、菅原道真を勧請した天満宮等により構成されていた道明寺は、本地垂跡説により道真が十一面観音の化身との信仰により、神仏混淆の尼寺として明治維新を迎えた。

「道明寺」(謡曲)

ワキ「然らば五幾内河内の国土師寺は。天神の御在所なり。かの所に神明を始め奉り。七社の神々を勧請申されたり。又天神は一切衆生現当二世のため。五部の大乗経を書き供養して埋まれたり。その軸より木槵樹の木生ひ出でたり。その木の実を取り珠数として念仏百万遍申さば。往生疑あるまじきと承つて。夢覚めぬ。なんぼう有難き御夢想候ふぞ。
シテ「かゝる有難き御事こそ候はね。やがて寺中の人々にふれ申し候ふべし。まづ唯今仰せられ候ふ木槵樹を見せ申し候ふべし。此方へ御出で候へ。
ワキ「さらばやがて御供申し候ふべし。
シテ「是に神明を初め奉り七社の神々を斎ひ申され候。またこれなるは天神にて御座候。あれに 見えたるこそ唯今御物語り候。木槵にて候。よくよく御拝み候へ。
ワキ「有難や神も仏も同一体とは申せども。天神同意の御結縁今始めて承り候。
ツレ「うたての聖の仰やな。今に始めぬ天神の、弥陀一体の御値遇。天神と申すにその御本地。救世観音にてましまさずや。
ワキ「げにげにこれは理なり。昔在霊山名法華。
シテ「今在西方名阿弥陀。
ワキ「娑婆示現観世音。
シテ「三世利益同一体。
ワキ「その外神や。
シテ「仏とは。
地上歌「たゞこれ水波の隔にて。神仏一如なる寺の名の。道あきらかに曇らぬ神の宮寺ぞ貴き。有難し有難し。げに神力も仏説も。同じ和光の影に来て拝むぞたつとかりけるたつとかりける。