藤倉神社 秋田県秋田市山内 旧・村社
現在の祭神 天照皇大神・大物主大神
本地 千手観音

「藤倉山本縁起」

謹て其濫觴を尋奉るに、人王五拾代桓武天皇の御宇に当て、陸奥の蝦夷大に起て国中を鈔む。 天皇震襟を悩まし、延暦八(己巳)年征夷大将軍古佐美・副将広成等の諸将をして奥賊を平治せしむ。 諸将勅を奉して屡東夷と会戦すと雖、賊徒勇猛にして官軍敗続せしより、蝦夷等益々勢利に募り邦畿是か為に動揺す。 同十年(辛未)秋七月天皇再大伴弟麿・阪上田村麿・百済王俊哲等に詔して東夷を平定せしめ玉へしか、残党猶処々に散在して朝敵の色を顕す。 依之同二十(辛巳)歳田村麿・利仁公重ねて勅を奉して賊徒を追撃、神楽岡において高丸を射殺し、悪路王を平らけ玉ひ、翌二十一(壬午)歳大墓公・盤具公を降して奥州悉平均す。 田村将軍是兼て仏乗に帰し、神祇を崇信し玉ふを以、出陳の度毎深く祈誓を籠玉ふて、必神助仏力を仮りて、能堅陳を砕き、猛将を亡し玉ふ。 就中鈴鹿山において悪鬼退治し玉へし時、余類多く出羽の国齶田の深山に逃来て、人民を餐し国中を悩す。 依之将軍師を率て齶田の境に発向し、保呂羽の嶽にて夜叉鬼を儺ひ、鷹尾の峯にて与禰鬼を征し、雄鹿の巌洞にて大嶽丸を亡し玉ひ、凱陳の御願果として国中諸処の勝地を点検せしめ、神社を経営し仏躯を安置し玉ふと云々。 始大嶽丸を駆迫ふて太平山より仁別の峯を伝ひ山内の岨を巡りて御前山に暫く休らい、四境を観矚し、悪鬼の行衛を思煩ひ玉へしか、渠通力自在にして飛行意に任す。 更に人力の及へからさるを察し玉ひ、猶深く神仏に祈誓を籠玉へしに、側なる老木に幾止勢也経し巨藤の蔓延て千枝百枝組重なれるあり。 其上に大三輪の大神忽然と顕現座まし、西北の方雄鹿の峰を指さして悪鬼の去処を示し玉ふ。 将軍渇仰膽に銘し、則仮の祠を設けて、藤座大権現と祝祭り(巨藤を座とて、天神の影降ありしをもて、藤座権現と祭り玉ひしを後世、座を倉と改むると見へたり)、大悲千手観音の尊像を安鎮し奉る(この尊像、是延暦十七戊寅年秋七月、釈延鎮、洛東清水寺の本尊彫刻の余木をもつて作り玉ふ処にして、将軍五ヶ年の間、愈持し玉ふ尊像なり。世に慈覚大師の作と伝ふる、是大なる誤なり。年代に三拾年の齟齬あり。考へし)。 将軍悪鬼を雄鹿の峰に退伏し畢て、御願果として、亀甲山古四王宮を再建し、太平山を復興し藤倉山の堂宇を造営し玉ふと云々。 其後人皇七十代後冷泉院の御宇、源頼義・同義家勅を奉して奥州え下向し、貞任・宗任と屡合戦を挑むと雖、賊党勇猛にして官軍利を得さりしかは、八幡太郎義家公大に心慮を困しめ玉ひ、羽州の住人結城出羽守師清を召され命して曰、我等父子忝も将帥の勅選に当て、数年戦労を竭すと雖、朝敵いまた降らす。是併人力の及さる処歟。是に依て神仏の冥助を祈らむと欲。我に観世音菩薩の尊像有り(伝云、閻浮檀金にて、御丈壱寸八分)。弱冠の時より久しく髻中に秘して尊信年を経たり。汝勝地を見立、一宇を建立し、この尊像を安置し、朝敵退散・国家安全の旨を祈奉るへしと。 師清謹て承り、某か居城仙乏金沢の館より三十里計北門に当り勝地あり。藤倉山と号す。則田村将軍・利仁公の草創にして最殊勝の霊社也。利仁公嘗千手大悲の尊容を安す。如今此霊像を以、彼勝地に安置し奉らは、往古の嘉例に協ひ軍門の吉兆ならむと言上す。 義家公大に喜悦あつて、則尊像を師清に附し玉ふ。 師清命を受、従弟信田太郎光景を伴ひ自国に馳下り、直ちに当社に詣し、彼尊容をもつて藤倉山の合殿に安鎮し奉り、深く祈念を籠られしに、康平五年(壬寅)九月十七日(是当社観世音の祭るに適す)、頼義・義家の両公、軍威大に震ふて衣河・鳥海の両城を攻落し、廚川の城において貞任を誅す、尋て宗任を虜となし、賊徒忽滅却す。 乃奥州平均の勲賞として、相馬五郎常晴・鎌倉四郎景村に命して当社え賽詣せしめらる。 且三浦和四郎国輔・佐藤嘉兵衛尉某を木工奉行として、新に社殿を修造せしめ、豊島の荘を寄附して以当社の神領と定玉ふと云々。