八幡神社 埼玉県川越市山田  
現在の祭神 誉田別尊(応神天皇)・比売神・息長帯姫命(神功皇后)・天津日高穂穂出見尊
[合祀] 伊弉冉命・猿田彦命
本地 阿弥陀如来

「新編武蔵風土記稿」巻之百六十八
(入間郡之十三)

府川村

八幡社

祭神は誉田別尊なり、 神体は束帯銅像長一寸、 鎮座の年代詳ならず、 社伝に康永三年再興ありし由を云、 又土人の説に昔はいと全盛なる社にして、近郷志垂・宿粒・網代・谷中・石田・同本郷・菅間・向小久保・比企郡角泉・当村総て十村の鎮守なりしが、中古各村に鎮守を勧請せしより、今は唯当村と志垂村の二村鎮守とせりと云、 又前に出せる天正五年の文書に、神田二貫文と載たり、其頃社領もありしこと知るべし、
末社 天神社 稲荷社

光明寺

天台宗、仙波中院門徒、世界山遍照院と号す、 今住僧なければ開山の事跡を尋るに由なし、 按に是則後に出せる八幡の本地堂、光明寺の古跡なるべし、
[中略]
阿弥陀堂 光明寺持、弥陀の画像二幅を安ず、 其一は源満仲の筆にて、立像一尺四寸、 一は恵心僧都の画きし物にて、一尺六寸三分の立像なりと云、 何れも秘して見ることを許さず、 大永七年丁亥二月小沢藤右衛門維宗と云る者書し縁起ありて、今子孫万右衛門蔵す、 其略に此画像は維宗が祖維延と云し者へ、相模守時頼の与へし所にて、村内八幡社再興の時覚円坊と云る者、新たに本地堂を建立して光明寺と名付、其後又円智坊と云僧今の堂宇を建立し、爰に移せし由をのせたれど、紙性墨色後人の書写せしものと見えたり