| 現在の祭神 |
天御中主尊 [合祀] 誉田別尊(応神天皇) |
当社霊神大梵天王、若宮権現、詳其根、大梵天王、本地観世音菩薩応化也。
若宮権現、本地大日如来所変也。
昔上宮太子、安五智如来于五箇、便迷情、護群黎、斯境其一也。
夫大日如来者、顕化金胎、特我豊葦原本主也。
故毘盧遮那経疏曰、毘盧遮那、此曰日。
蓋天地之間、日光皆遍、我毘盧世尊大覚円照、無所不至、仮借世相、致日寓名、故摩訶毘盧遮那仏、翻名大日如来也。
旧宮社之美、規模之宏、最至也。
忽有石田之寇火焼失焉。
然後天正甲申、氏子等相議、借衆庶力、経営小社、今矚其地体裁、東安大日、謂之本地堂、扁正燈寺。
西有閼伽池、當年祭祀厳巍、勤行精肅、難言容其間。
「五個荘町史 第1巻」(古代・中世)
大梵天王の遷座
天満宮社蔵の「大梵天王七里村へ御動座之事」によれば、天和二年正月一八日の夜に、宮人の長老である礒部清右衛門の夢中に大梵天王が登場し、枕元に立ち「是れより乾の方にあたる正燈寺の森に遷るべし」と告げた。
この霊夢を翌朝早速に他の宮人らと相談し、正燈寺の森は七里村にあたるので七里村にこのことを告げた。
三月一八日、七里村では正燈寺の森へ大梵天王を氏神として勧請し、七里村の旧氏神若宮大権現とともに奉祀した、とのことである。
大梵天王の遷座については、『大郡神社古記註書』(『近江神崎郡志稿』[LINK])にも上記の遷座の事情を記しているが、正燈寺を勝堂寺と書き、七里村惣中が勧請することを決断した日が、七里村の「ダンゴ」とよばれる休日となったことを、
決談ノ正月十九日ヲ古今休日ニシテ、其休日ノ唱ヲダンゴト云。
談合日ト云事ナリ。
コノ故ニ七里村氏神旧社若宮大権現、大梵天王ト同殿ニ祀リ、大梵天王ヲ産土神ノ本トス。
と記している。
境内の享保五年(1720)の石灯籠には「大梵天王・若宮権現」「享保五年庚子八月吉日」と刻まれている。
願主名は磨滅していてよく読めない。
石馬寺の住持龍光は天和四年(1684)に『神崎郡七里庄惣廟記』と『末社綾之御前宮殿再興并由緒』を撰した。
ともに板に墨書したものであるが、『神崎郡七里庄惣廟記』には当社霊神である大梵天王は観音菩薩の、また若宮権現は大日如来の化身であると述べている。
また、若宮権現と正燈寺の由緒については、若宮権現は兵火で焼失したのを、天正一二年(1584)に再建したもので、境内東に本地仏である大日如来を安置する正燈寺が建てられ、西には仏前に供える水を汲む閼伽池があったことを、
天正甲申、氏子等相議し、衆庶の力を借り、小社を経営す。
今其地の体裁を矚るに、東に大日を安んじ、之れを本地堂と謂い、正燈寺と扁す。
西に閼伽池有り。
と記している。
そして、「十員を以て守人と謂う。歳々輪次に之れを主とし、其社地を守る」と、10人の守人が交替で神社を守って来たと述べている。
明治になって現社号である五箇神社に改めた。
[中略]
五箇神社
宮荘の五箇神社は、往古は東西二殿で五個荘内の惣社、五個荘の起源だと伝える。
社記によれば、古くは八幡神と他の神々との二宇の社殿があったといい、天正年間(1573~92)の兵火で焼失し、文禄四年(1595)本殿一宇を再建、二社を合祀したという。
[中略]
社号については、安政三年(1856)の梵鐘取り調べには「北庄村六正権現」とみえ、『異本近江輿地志略』には、「北庄村、金堂村の北にあり。六正権現社、祭礼毎年三月初の午日也。近世まで五箇祭組合にして、神輿金堂大宮に渡御有り」という。
前述したように、宝光庵は当社の社僧の庵で、本尊大日如来はこの宮の本地仏といわれ、聖徳太子作との伝えがある。