「新編相模国風土記稿」巻之三十三
(村里部 足柄下郡巻之十二)
網一色村
御霊八幡宮
村の鎮守なり、
鎌倉権五郎景政の霊を祀る所なり、
神体初は甲冑にて弓矢を取し銅像を安ぜしに、近き頃失ひて今は幣束を置、
本地地蔵を安ず、
例祭六月晦日、
呑海寺持、下同、
△末社 疱瘡神(徳裏明神と称す)
新田社
本地仏地蔵、
社伝に延元二年新田左中将義貞、越前にて討死の後、其臣船田入道、義貞の首級を捧持し、東国に下向して爰に葬る、
入道は名を久保明翁と改め、則此地に隠栖すとなり、
故に今も立願する者は、久保明翁の子孫なる由告れば願望成就すと云、
【太平記】を按ずるに、延元二年七月二日、義貞越前足羽にて討死の時、自ら首をかき深泥の中に蔵せしを、越中国住人、氏家中務丞重国、首を取て足利尾張守高経の実検に入れ、夫より京都へ上せ、獄門に懸らるとあり、
且船田入道は義貞討死より前、建武二年正月京都の戦に討死せし人なり、
然れば社伝信じたし、
又三州妙国寺の伝に、宇都宮左近将監泰藤、其首を奉じ、義貞の本国上州へと志し関東を下りしに、小田原駅に著し時、泰藤偶疾に臥す、
依て其首級を瓶に収め、酒匂川の辺に埋む、
後に新田明神と崇むとあり