八幡宮 愛知県岡崎市福岡町 旧・郷社
現在の祭神 応神天皇
[合祀] 天照皇大神・白山姫命・伊雑大神 <御鍬社>・罔象女命 <水神社>
本地 阿弥陀如来

「参河国額田郡神社誌」

郷社 八幡宮(指定)[LINK]

当社創立の由来を稽ふるに、永禄七年三月一向宗争乱の際兵燹に罹り、旧記、社暦、皆焦土に化し、今は詳細知るに由なきも、残存せる遺物文献に依れば、遠く奈良朝の末年か平安朝の初期なるべし。 永禄の頃迄は摂社末社座し、随神門あり、神宮寺をさへ建立し、附近一体の鎮守産土神と尊敬厚き総社なりき。
[中略]
元亀年中に至り、神宮寺は頽廃甚だしくして、再興の余地なく、本尊仏のみ修理し、当社の拝殿に安置し、寺門廃滅に帰したり。
[中略]
旧本地仏(宝物)

  大仏縁起額の文
謹敬白修多羅曰仏種従縁起是故説一乗矣
抑有於三州額田郡深溝庄土呂郷八幡宮之森桐安其殿内弥陀如来座像之大仏其濫触不知何人勧請又大仏誰人安置即神仏兼号而号八幡山神宮寺矣 亦巷衢雅童四隣男女語話土呂大仏耳本夫神与仏是水波隔也 謹案八幡大菩薩者人皇第十六代応神天皇是也 帷時第三十代欽明帝御宇肥後国菱形池畔民家児甫三歳記曰我是人皇第十六代誉田天皇広幡八幡也我名護国霊験威身神大自在王菩薩矣 其後有勅使移而鎮座於豊前国宇佐宮矣 亦人皇五十六代清和帝御宇有大和国大安寺行教上人者崇宇佐一夏九旬読経弥呪法歳満夢太神曰久受法施不欲離師亦居王城側当護皇禰遂移于山城男山世言教祈見大身本神於是弥陀観音勢至三像現袈裟上因是殿内安三像云々 然則神与仏顕本迹二門利済郡生矣

土呂八幡宮案内板(岡崎市教育委員会)

土呂八幡宮

◇重要文化財 建造物 八幡宮本殿 一棟(付棟札)
           昭和六年一月十九日指定
◇県指定文化財 彫刻 木造阿弥陀如来坐像 一躯
           昭和三十七年三月十日指定

 社伝によれば、本社の創立は奈良末期~平安初期といい、末社・随身門・神宮寺を伴っていたという。
 応仁年間(1467~69)蓮如上人が神宮寺の側に本宗寺を建て、三河一向宗の拠点となった。
 永禄六年(1563)~七年の三河一向一揆の祭、本宗寺とともに当社殿も焼失し、記録等は失われた。 その後、家康の命により、石川数正が八幡宮の再興にあたったと伝えられている。
 現在の社殿は、元和五年(1619)代官畔柳寿学の再建で、大工は伊勢の河北二郎兵衛定守という。
 三間社流造、桧皮葺で古風な形式を残している。
 阿弥陀如来坐像は、元亀年中(1570~73)に廃退した神宮寺の本地仏である。
 像高144cm、寄木造、彫眼で、かつては漆箔像であったと思われるが、現在の表面は黒漆仕上げである。 躯体、螺髪等からみて平安後期の作であり、伏し目がちの眼、丸顔には定朝様の影響がうかがえる。