「日本の神々 神社と聖地 9 美濃・飛騨・信濃」
白山神社(大澤和夫)
飯田市の北西、風越山(1535メートル)の山頂に奥社、その山麓に里宮が鎮座する。
奥宮の正面に小さい隨神門があり、その傍らに「五十町」と刻された町石がある。
五十町とは麓の遥拝所(後述)からの距離であり、里宮から奥宮からの距離は四十二町あるという。
一方、里宮(本社)には重層の大きな隨神門があり、飯田市指定文化財となっている。
これは文政十一年(1828)に再建されたもので、正面に「翠濤閣」と書かれた額がある。
彫刻も多く施され、木鼻には天人と仙人、天井には十二支が巧みに刻まれており、裏に面したところには「第一峰」と印された額があって、明の即非の書といわれている。
隨神門を入ると左に琴の碑と手水場があり、奥の玉垣のなかに白山神社の本殿がある。
本殿が黒ずんでいるのは、明治以前には寺の護摩堂であったからだといわれている。
事実、当社を飯田の人々は「白山寺」と呼んでおり、その白山寺は隨神門に隣接する岩戸久三氏宅および現里宮境内を占める天台宗の大寺であった。
『伊那郡神社仏閣記』(大正十一年、伊那史料叢書刊行会発行)には白山神社の名は見えず、「白山妙理権現、御朱印十石、別当天台宗岩戸山白山寺、元正天皇の御宇養老年中加州白山より勧請す。その後後冷泉院の御宇永承廿年年知久神峯城主源満政宮社を修理さる、棟札あり奉納の鰐口あり、其後飯田大守御代帰依せられ修理を加えらる。白山寺は山の麓に建て、鳥居は上飯田村の里中にあり、鳥居より山上迄五十丁」と書かれている。
文中の永承二十年や源満政のことは信じがたく、現に永承の棟札も鰐口もない。
しかし、この別当白山寺が白山社(現奥社)を支配していたことはまちがいなく、今の里宮の隨神門はかつての仁王門であり、そこにあった風神・雷神像は明治以後、鼎の萱垣の寺に移された。
また上飯田村の里中にある鳥居とは丸山区に現存する石鳥居のことで、そこは「権現山の遥拝所」と称せられ、飯田藩士奉納の石燈籠もある。
権現山とはもちろん前記の風越山のことである。
白山社がいつ勧請されたかは不明であるが、風越山の麓に「砂払」という所があり、また今日も里宮(旧白山寺)が登山道の出発点となっていて、途中には三重塔跡・五重塔跡・お滝場・石燈籠・虚空蔵堂跡(そこを今は虚空蔵山と呼ぶ。海抜1113メートル)・比丘尼平・矢立木などがあって、かつての白山信仰の名残を伝えている。
奥宮は現在、三間社流造の本殿の中央に菊理姫命、左右に伊弉諾尊と大己貴命を祀っている。
[中略]
当社は飯田城下町の町人はもとより飯田藩主代々の崇敬を受けた。
菊理姫命の本地仏十一面観音その他の宝物があり、天正二年(1574)・寛永三年(1626)・寛文九年(1669)・貞享五年(1688)・宝永元年(1704)・享保十六年(1731)・明和元年(1764)・安永四年(1775)・文化三年(1806)・天保九年(1838)銘の棟札が旧白山寺の僧であった岩戸家に保存されている。