花尾神社 鹿児島県鹿児島市花尾町 旧・村社
現在の祭神 源頼朝・丹後局
[配祀] 僧永金・清和天皇
本地
源頼朝阿弥陀如来
丹後局十一面観音
僧永金薬師如来

「三国名勝図会」巻之十

花尾大権現社[LINK]

東俣村、厚地村花尾山の南麓に在り。 祭神三坐、正位は鎌倉右大将源公(諱は頼朝)、右位は丹後局、左位は永金阿闍梨。 元禄二年、己巳、三月、大乗院覚慧誌せる縁起に據れば、公は束帯儼然たり。 丹後局は容儀温如たり。 永金は衲衣威儀あり。 三位の木像、皆秘尊にして、古より猥に親見することなしとす。 正祭正月十三日、十二月十二日。 建保六年得仏公攸を相て創建し給ふものにして、此時今の社の酉方にあたり、祓川を隔てゝ、一町許り、園田門の岩壁に、熊野権現影現し給ふ。 熊野権現の本地は、弥陀、観音、薬師なれば、廼ち右大将公を弥陀、丹後ノ局を十一面観音、永金を薬師と崇め、尊号を権現と号し奉る。
亦内陣に神鏡七面を掛く。 七面各形象の大小あり、銘文の有無あり。 其中一鏡の銘、薩州満家院厚智山権現御正体云々、為聖朝外朝日本大将軍家御願成就、殊当国守護所惟宗忠久云々、悉地成就云々、建保六年(太歳戊寅)九月日、永金敬白。 所謂厚智山権現とは、山の号にかけて称したるべし。 則ち当社を指す。 恭しく想ふに当社の事は、得仏公賢慮を深くし、万世を鑑み、君父のために創建し給ひ、邦家の守護神と仰かれしよし、今に至り、方に六百有余年、神徳ますます赫き、霊異愈新たに、寔に三州の倚頼万民の渇仰するところ、其余光を望み、其恩沢を願はざるはなし。 世々の邦君祖宗の意に体し、帰厚の誠を尽し、屡再興し給ひ、崇敬二なく、余社に異なる霊廟なり。
寛政元年、大信公新たに神廟を張皇し、且神祇道管領従二位ト部良倶に乞ひ、大権現の尊号を進め、崇源宣旨を奉納し、神官井上右内藤原祐甫を以て神主となし、祭祀を掌らしめ、社家園田将曹藤原舎真、有屋田蔵人藤原俊朶、二人をして、祐甫に属し、社務を助けしむ。
[中略]
別当の本坊を平等王院とす。 当初は別に脇坊三十六あり。 各堂閣を守りて、交法施を丁寧す。 本坊脇坊、ともに得仏公創建の巨塲なりしが、世の多故にしたがひて、中否し、宝永中に至り、公命あり、平等王院を再興して、香花を奉ぜしめ、本府大乗院をして、此院を兼帯せしめ、尋で脇坊曼荼羅寺、普眼院、本地院、多聞院を営み、平等王院に副て事をつとめらる。
社を距つこと十四町余に、一の華表、七町に二王門、四町に二の華表、此辺別当寺、及び廟吏の宅相連り、一町余に三の華表あり。 嗚呼花尾の山たる、群峯回抱して、衆渓分れ瀉き、所謂千巌競秀、万壑浄流の勝あり。 殊に大杉樹林欝然として、廟地を擁す。 かゝる清浄静深の境なれば、参詣の徒、覚えず、凡情を忘れ、敬信純一の心を生ず。 実に雄傑絶世の君、祭祀の処に称ひ、凛々たる威霊、百代を経て常に存じ、勃々たる、気象正に当時見るがごとし。
すべて此花尾社の事は、廟記ありてこれに詳かにす。 次に出すを考ふべし。 こゝに多くいはず。
○花尾大権現廟記
花尾大権現は、薩摩州日置郡満家院郡山郷厚智村花尾山の麓にあり。 府城を距ること四里にして遠し。
始祖忠久公の建給へるところにして、三位の神を祀る。 中は鎌倉右大将頼朝公、右は丹後御局、左は永金阿闍梨なり。
謹て按ずるに、頼朝公は忠久公の御父なり。 文治元年、忠久公封ぜられて薩隅日三州の守護職となり、此国に下り給ふ。 正治元年正月十三日、頼朝公鎌倉に於て薨じ給ふ。 建保元年、忠久公棟宇を花尾山の麓に構へて、頼朝公の尊像を御安置なされ、百世不毀の廟とさだめ玉ふ。
丹後御局は、忠久公の御母なり。 初め頼朝公に幸せられて、孕み給ふことあり。 夫人平政子の妬み甚しきゆゑ、潜に逃れて西国へ赴き給ふ。 時に摂州住吉に於て御男子御誕生あり、即ち忠久公なり。 其後御局忠久公を御たつさへにて、八文字民部大輔帷宗広言に嫁し給ひしに、忠久公薩隅日の守護職にて、此国に下り給ふ時に、御局及ひ広言を迎へ取り給ひ、広言を市来院の地頭職に補り給へり。 さるほどに、御局も常には市来におはしけるが、忠久公より厚地村・東俣村を湯沐の邑となし給ふによつて、時には両村の間に遊び給ふことあり。 嘉禄三年丁亥十二月十二日、掩粧し給ふ。 御遺命にて、花尾山の麓に葬り奉る。
永金阿闍利は、俗姓大蔵氏の人なり。 御局帰依の名徳にて、これも花尾山の麓に葬れり。
是に由て、御局・阿闍梨の両像を、御廟に御安置ありて、頼朝公に従祀し給ひ、三位を合せて花尾権現と崇給ふ。
また霊鏡七面を内陣に納めて、権現の御正体としたまふ。 霊鏡みな背に仏体を鋳て、銘を記せり。 其内仏体及ひ銘ありて、末に建保六年、太歳戊寅、九月日(大蔵臣僧永金大中臣真久)と誌すもの、一。 仏体及ひ銘ありて、末に建保六年、太歳戊寅、九月日永金(敬白)と誌すもの、一。 仏体及ひ銘ありて、末に建保六年、九月日、永金と誌すもの、二。 仏体ばかりありて銘なきもの、三なり。 合せて七面、並に栄金真人より献せし所と、旧史に見えたり。
また、厚智村のうちに、平等王院、並に三十六坊を立て、御廟祭祀の事を掌らしめ給ふ。 因て永金を以て、平等王院の開山となして、厚智東俣の両村を施され、御廟祭祀の用を資け給ふ。 また三十六坊にも、おのおの土田を施さる。 楼閣香花の盛なること、当時たぐひもなかりしといふ。
[中略]
弘治元年に、鹿児島の清水に真言宗大乗院を御創立あり。 伊集院荘厳寺の住持俊盛法印を召して開山となし、厚智村を施し給ひ、世々公室の御祈願所にして、花尾廟の事を託し給ふ。 是より以来、大乗院より花尾廟の祭祀香火を掌りしと聞ゆ。
[中略]
天明八年、井上右内といへる神道者を花尾権現の神主となし給へり。 しかるに、花尾山の嶺に古昔より熊野権現宮ありて、弥陀・薬師・観音の三尊を以て本地とす。 其後麓に花尾権現宮を立られしに、ほとなく御宮西面の岩の上に、弥陀・薬師・観音影現あり(この岩を影現の岩と名く。また御本地の岩とも、御正体の岩ともいふなり)。 これによりて、花尾権現は熊野権現と同体なりといひ伝へ、本地を加へて頼朝公は弥陀、永金は薬師、御局は観音と崇めしに、右内神主に成に及んでは、神道の法を用ひ、平日専ら垂跡を以て、頼朝公・永金・御局の三位を祭る。 正月十二月の両祭には、大乗院法印とかはるかはる廟参して祭儀を行ふ。 かやうに或は本地、或は垂跡とりとりなれども、並ひ行ひて相妨けす、我君の為に誠敬を致すことは一揆に帰すといふ。
また今茲寛政元年また重豪公より、神祇道管領勾当長従二位ト部朝臣良倶に乞ひ給ひ、花尾権現を尊て、大権現と称し給ひ、崇源宣旨一通、廟内に納め給ふ。 よつて花尾大権現の新額を、楣間に掲げ給ふ。 また華表二坐を立給ふ。 一は厚智村の堺口にあり。 一は平等王院の前にあり。
[中略]
○御供所 社の右にあり。
○鐘楼 社前の左にあり。 浄国公の時、中山王尚敬所献の鐘を懸く。
○随神門 社前四十歩許にあり。
[中略]
○丹後局御墓并永金阿闍梨墓 当社より己方二町、廟道の左傍五歩許、阜上にあり。 局御墓の右に并永金阿闍梨墓あり。 明暦中、局の石塔を窺ふ者ありし。 塔中に赤蛇三蟠りて、塔を呵護するのゝ如し。 人皆驚異す。 永金の石塔にも、さまざま霊験あるよしいへり。 まことに精神の伏蔵するところ、敬して遠ざかるべきことなり。
○丹後局御憩石 当社より六町許り、廟道の傍にあり。 石欄を繞す。
○農民の舞躍 毎年八月十二日、厚地の農夫、当社の前庭に於て、金鼓を奏して舞躍を興行す。 其次に婦女の舞躍あり。 諸方より聚観して甚閙然なり。