飯道神社 滋賀県甲賀市信楽町宮町 式内社(近江国甲賀郡 飯道神社)
旧・村社
現在の祭神 伊弉冊尊・速玉男神・事解男神
[配祀] 大倭根子天皇・岐神・菊理媛神
本地 薬師如来 釈迦如来・阿弥陀如来・薬師如来

「日本の神々 神社と聖地 5 山城・近江」

飯道神社(満田良順)

 飯道山の西南山麓には、聖武天皇の宮都として天平十四年(742)八月から造営が開始された紫香楽宮の宮址があり、そのためもあってか、当社は「飯道神」として早くから中央の記録に登場する。
[中略]
 当社の現在の主祭神は伊弉冊尊・速玉男命・事解男命であるが、これらは後述の熊野修験との関係によるもので、本来の祭神は原始山岳信仰の対象としての飯道神一柱であったにちがいない。 当社背後の山頂には僧房五十八宇をもつ金寄山飯道寺が明治初期まで存在した。
[中略]
 当社の由来について、嘉元年中(1303-06)から遅くとも室町期に成立したとみられる『飯道寺古縁起』は、その冒頭におよそ次のように記している。
昔、摩訶陀国の大王の王子宇賀太子は弁天女と夫婦になり、仲むつまじく暮らしていたが、弁天女は貧民を救うため、仏約によってわが国の餉令山に鎮座した。 宇賀太子は弁天女を慕って村々を尋ね歩いたすえ、近江国甲賀郡油日岳に影向し、寺庄(甲賀郡甲南町寺庄)の常徳鍛冶に一宿を請い、弁天女の行方を尋ねると、常徳は弁天女が餉令山に遷座ましますことを伝えた。 喜んだ宇賀太子は常徳に、食べても尽きることのない米や、蒔かずとも毎年生える大根の種を与え、立ち去るにあたり、 「餉令山にいる私を尋ねたいときには、石楠花の葉に盛った飯を道標として尋ねてきなさい」 と言って姿を消した。 常徳がその道標をもとに餉令山に登ってみると権現(飯道権現)に出会うことができた。 そこで常徳は祠を建てて権現を祀った。
 この由来譚は仏教説話を基本に展開されているが、宇賀太子は、食べ尽きることのない米や蒔かずとも生える大根を与える神として描かれているように、記紀神話の穀物神宇迦之御魂神(倉稲魂神)と同一神格である。 また弁天女とは、水神・龍神として広く民間信仰を集めてきた弁才天(弁財天)のことである。 この二神を習合させて「飯道権現」としたのは。農耕神が飯道山に鎮座するという山岳信仰が存在していたことを物語るものであろう。
[中略]
 ちなみに、先の『飯道寺古縁起』は祭神の本地仏を釈迦・弥陀・薬師と唱えているが、これは飯道寺が熊野修験と同じく天台系の法灯を汲むことを示す物である。
 『延喜式』以降、15世紀始めまでの当社の詳細は知ることができないが、昭和51年9月に本殿床下から建長四年(1252)を上限とする鎌倉・室町期の560体の懸仏が発見された。 本地仏である釈迦如来・阿弥陀如来・薬師如来が圧倒的に多く、十一面観音・地蔵菩薩・毘沙門天などが混じっている。

清水善三「本地仏像の成立 神道関係彫刻の分類」

(1) 本地仏像の成立—多度神宮寺伽藍縁起資材帳』を中心にして

もとは神社や神宮寺の本地仏であったと伝える尊像の遺品は9世紀末、10世紀初頭からみられ、それらに徴するかぎり、この時点の本地仏はいずれも薬師仏として造立されたと考えてよいようである。 たとえば9世紀末から10世紀初頭の制作と推定される旧若王寺の本地仏薬師坐像(現奈良博)、滋賀県甲賀郡椿神社の本地仏坐像(現大岡寺)、10世紀前半と推定される同じく滋賀県飯道神社の本地仏薬師坐像(現大日堂)、10世紀後半と推定される京都田辺町甘南備(かんなみ)山の本地仏薬師坐像(現甘南備寺)などが早い例である。
[中略]

(3) 調査作品目録

A 本地仏像
  1. 京都市上醍醐寺清滝宮本地仏如意輪観音坐像(11~12世紀)
  2. 京都府田辺町甘南備神社本地仏薬師坐像(10世紀)
  3. 亀岡市出雲神社本地仏薬師坐像(10世紀)
  4. 京都府丹波町新宮寺熊野神社十二所権現本地仏十二躯(12世紀)
  5. 京都府北桑田郡西乗寺(八幡宮)本地仏十一面・阿弥陀・薬師像(13~14世紀)
  6. 滋賀県大日堂(飯道神社)本地仏薬師坐像(10世紀)
  7. 滋賀県大岡寺(椿神社)本地仏薬師坐像(9~10世紀)
  8. 滋賀県建部神社本地仏薬師坐像(11~12世紀)
  9. 滋賀県聖衆来迎寺(愛宕神社)本地仏地蔵菩薩(元徳2年、1330、仏師院芸作)。
  10. 三重県神宮寺(現耕三寺)本地仏釈迦(あるいは薬師か。10世紀)

「かみとほとけのかたち: 湖南地方を中心とした神像と本地仏の世界 企画展」

薬師如来坐像 一躯

  甲賀市信楽町 大日寺
  木造 像高110.6
  平安時代(十世紀)

 信楽町と水口町との間に位置する飯道山の本地堂に安置されていた像とされ、明治初年の神仏分離により飯道寺は廃絶し、大日寺に移された。

阿弥陀如来懸仏 一面

  信楽町 大日寺
  面径44.7
  室町時代(応永十二年=1405)

 円形鏡板の周縁に笠鋲を打った覆輪をめぐらし、内区中央に鋳造鍍金の阿弥陀如来坐像を据える。 ただし、阿弥陀は他からの転用で、当初はもう少し大きな尊像が据えられていた。 左右には金銅板金打出の千手・薬師坐像を配している。 両肩部には獅噛形鐶座を付している。 裏面の墨書銘は「奉懸飯道大権現本地/応永十二(乙酉)年卯月一日柏木那坂祥智敬白」とあり、本懸仏が飯道権現の本地仏であると知られ、飯道神社本殿の内陣檀内から発見された飯道神社懸仏群とともに飯道山信仰を考えるうえで貴重な資料である。