「江戸名所図会」巻之三(天璣之部)
千駄ヶ谷八幡宮
同所(千駄ヶ谷)一丁ばかり西にあり。
この辺の総鎮守にして、祭礼は九月二十七日なり。
別当は真言宗高雲山瑞円寺と号く。
[中略]
社記に云く、往昔この地深林のうちに時として瑞雲現じける。
またあるとき、碧空より白気降りて雲上に散ず。
村民怪しんでかの林の下に至るに、忽然として白鳩数多西をさして飛びされり。
よつてその霊瑞を称し、小祠を営み名づけて鳩の森といふ。
貞観二年慈覚大師東国遊化の頃、村民ら大師に鳩の森の神体を乞ひ求む。
よりて宇佐八幡宮、城州鳩の嶺に移りたまふ古へを思ひて、神功皇后・応神天皇・春日明神等の尊体を作り添へて、正八幡宮と崇めたまふ。
遥かに後久寿年間、渋谷正俊領地に鎮座の御神なるをもつて、金王丸生前隨身の本尊、恵心僧都の作の弥陀如来の像を本地仏とし、社を造営して、この地の産土神と称し奉りしより、霊応は照々として日々に新たなり。
「御府内備考続編」巻之八
八幡社(千駄ヶ谷)
神亀年間勧請之由申伝候得共詳なる儀相知不申候、
○本社(方二間、瑞籬折廻、竪三間、横五間) 幣殿(竪三間、横五間)
拝殿(竪二間、横四間) 向拝(竪一間、横二間)
祭神応神天皇左右相殿に神功皇后春日明神鎮座、
神躰木像(長九寸、甲冑にて白馬に跨給ふ御姿)
相殿二坐神体共に木像(長各一尺二寸)
右神躰とも聖徳太子御作と申伝候、
江府豊島郡渋谷庄千駄箇谷
惣鎮守鳩森八幡宮縁起
当山鎮守応神天皇、初名誉田天皇又号胎中天皇、居于大和国軽島登明宮、
[中略]
欽明天皇三十一年冬、天皇現于肥後菱形池辺、
糺民家之児曰、我是人皇第十六代誉田八幡也、
垂跡于諸州而今来于茲、
厥後差勅使遷鎮座於豊前国宇佐宮(以上依神皇正統記出之)、
[中略]
同縁起
原るに当社正八幡宮御神躰応神天皇は聖徳太子拾六歳の御時守屋退治の為誉田八幡宮へ一七日の間参籠有之、霊夢を蒙り給ふ、
依而守屋退治の後霊夢に相見し奉る処の御姿を自ら彫刻し給ふ処の御神躰なり、
抑千駄ヶ谷の宗廟にして氏子尤も多し、
辱も正八幡宮は源家一統の守護神にして、昇平武運長久日に守護し給ふ、
信心の輩は軍慮の秘術弓場の道役を蒙る、
凡詣来丹心の男女祈誓念願として満足せすといふ事なし、
爰に中古渋谷金王丸といふ者あり、
或時大軍に臨て命全く危し、士暫く当社八幡宮を祈念すれは、戦場忽ち飄てついに命全して陣に帰る事を得たり、
直に御礼の為且は明日の軍勝利あらん事を祈願せんと、当社へ詣来して三拝九拝する時、夜まさに丑みつの頃なりしか、不思議なるかな、拝殿俄に震動し宮中しきりに神馬嘶ひ、くつはの音高く響きたり、
士難有奇異の思ひをなし、扨は祈願感応ある事をしり、明日の軍勝利疑ひなしと、天へも昇る心地して又三拝九拝して陣に帰らんとする時、鳥居の内に物あり、
燭を照して是を見れは一筋の神箭なり、
是全く八まんの授け給ふ処の物なりと、謹て頂戴して陣に帰り、翌日果して右の神箭にて大軍を射破る事微塵の如し、誠に神慮の恵至れるかな、
而后武功によりて渋谷七ヶの荘を官領願す、
憑て生涯隨身の守本尊恵心僧都の作壱寸八分の弥陀如来を奉納して当社の本地仏とす、
[中略]
○祭礼例年九月二十七日、尤八月十五日之所八幡宮御供新米熟兼帯に付、幸当所安置之諏訪明神同日に相延候由申伝候、
○年中定例之祭日、正五九月湯立神楽
但し之日限不定、此外毎月朔日大般若修行仕候、
[中略]
○本地堂(土蔵造、間口二間半、奥行三間)
本地仏弥陀如来(一寸八寸、恵心僧都作)
右金王丸守本尊之由
○末社
天白稲荷社(神躰木立像、長ケ五寸)
[中略]
白山権現壬癸神合社(神躰木札)
弁天社(竪五尺、横六尺) 神躰(木立像、長五寸)
天満宮社(竪六尺二寸、横八尺) 神躰(木立像、長八寸)
玉姫稲荷末広稲荷合社 神躰幣束
稲荷社(竪二尺、横二尺) 神躰木札
○冨士浅間築山 祭礼六月三日