比治山神社 広島県広島市南区比治山町 旧・村社
現在の祭神 大国主大神・少名毘古大神・建速須佐之男大神・市寸島比売大神・車折大明神
本地
黄幡社摩利支天
車折社十一面観音

「知新集」第十一巻(真言宗 下)

勝楽寺[LINK]

黄幡社 一間四方、柿葺、椽 幅二尺五寸折廻り三方、屋根下高欄付、拝所 椽先より三尺五寸に一間の上り壇、廊下柿葺、桁行二間半、梁行七尺、幣殿 二間四方、瓦葺、拝殿 本瓦葺、桁行五間半、梁行三間。
此黄幡社と申ハ八将神の隨一にて、軍陣守護の神明本地摩利支天なり。 此神往古は比治山黄幡谷に〈比治山南鼻に今も黄幡谷と云あり〉在りしを、後当寺境内にうつさる。 年月詳ならねと、寛文年間より後の事と察せられ、黄幡谷黄幡小社とあり。 今は安芸郡段原村稲荷町西組下組中組東組四町沼田郡竹屋村一円の氏神なり。 正月門松添木、九月祭礼湯立の薪、毎年両度御山方より渡る。
[中略]
車折社 一間四方、椽 幅三方二尺、柿葺、拝殿 桁行三間、梁行二間、勘略瓦葺、前に鳥居あり。 文政三年庚辰新に勧請す。
 縁起
当社車折大明神と申ハ前右大臣藤原頼業公の御事にして、天性聡明におわしまし、三教の道に達し、歌歌の学に長しさせ給ふ。 これによつて後白河帝和歌文学の御師範と仰ぎ給ひ、つゝいて高倉安徳両帝へも、かくの如く仕へ給ひしに、平氏の悪行により、世上おだやかならす、詩歌の道もすたれ、万民の心をくるしめけれハ、頼業公世をうき事におほしめし、帝都の乾なる準か岡といふ所に引籠りつらつら世の盛衰を見給ふに、天命のかれかたし、平家悉く減ひ失せ、勿体なくも安徳帝西海に沈せ給ふ。 夫より漸後鳥羽帝にうつり、又又頼業公を文学の御師範となし給ひしか、後世のため和漢の書籍をあつめ、日夜に談論怠らず、士農工商の邪をいましめ、忍辱慈悲正直の道を示し給ひ、終に文治四年四月十四日世齡七十七にして薨しさせ給ふ。 されば嵯峨の霊地に尊廟を建て、常に桜花を愛し給ふにより、後鳥羽帝神号を桜大明神と下し給ふ。 其後後嵯峨帝大井川臨幸の時、御車を轟し御社の前を過させ給ふに、俄に御車とまり、牛進得ず、供奉の公卿里人をめし御尋ありしに、後白河帝より後鳥羽帝まで四朝の御師範藤原頼業公の霊廟なるよし答へ奉る。 天子御車を去り、御冠を傾けさせ給ひ、又御車に乘り給へば、牛飼舍人御車をすゝめ奉り、目出度還御の後勅号を車折と成下さる、其旧跡下車石とて今に残れり。 霊験ますますあらたにして、諸人の邪を正し、正直をなし給ふが故に、人に借たる物は速に返しつくなふ心を生ずといへり。 こゝに助道とかや云人あり、明神ある夜夢中に告て宣ふは、夫石は五濁の穢にそまず、是を清浄の霊物とす、我を信ずる輩は細石をもつて社に備へよ、其石に形をやどし、所願成就なさしむべし、我はこれ本地十一面観音なりと宣ひしより、助道ますます信仰の志を勵し、諸人にかたりて御神徳を崇めけるとや。 こゝにことし三月かの嵯峨よりこの御神体を此地に勧請し奉り、わが勝楽寺の境内にあらたに一社を建立し、同五月御遷宮の式をとゝのへ、普く結縁なし奉るものなり。
 文政三年庚辰五月
 安芸国安芸郡広島段原村 長寿山浄国院勝楽寺