氷川神社 埼玉県川越市新宿町1丁目 旧・村社
現在の祭神 須佐之男命
本地 十一面観音

「埼玉の神社 入間・北埼玉・秩父」

氷川神社

  川越市新宿町1-22(新宿字雀森)

歴史

 江戸期名主を務めた木野村家(元は木村姓)には『荒宿旧迹雀ノ森由来』という当社と同家とのかかわりを記した由緒が残る。 これによると、人皇十代(十一代か)末の太郎俊仁公(狭穂彦王か)が謀反を起こし、東下りして入間郡三芳野里に忍ばれた。 そこには数件の民家があり、貧しい老人の住む草庵に召し使いと共に身を寄せたが、都からの追手に驚いた俊仁公は逃れて行方が知れなくなり、追手も引き揚げて行った。 翌年の春、老人の夢枕に俊仁公が立ち、都を出てからの子細を語るので、不思議に思った老人は小祠を建てて祀った。
その後、日本武尊が蝦夷征伐の折、当地に野営し、彼の老人が尊に俊仁公の一件を言上したところ、尊は、俊仁公の罪を免じ、社地を定め老人に与えた。 次いで尊の薨去の後、老人は大和琴弾原の陵に参拝し、尊の神霊を勧請した。 以来、三社大権現として崇め、木村家で代々祀り、由緒は末々まで申し伝えられたという。
 また、寛平年中、旧記は残らず絶えてしまったが、その後、須佐之男命・大己貴命・日本武尊・末ノ太郎公・御后を併せ祀り、金毘羅三社大権現と号して小祠を建立し、仁和寺開山益信の末弟宗信が社僧を務めた。 延暦十二年中、僧空海が幼年のころ、この三社大権現に出家の大願をかけ、成就円満を機に金毘羅三社大権現の御姿を拝して自ら彫り、帝の宝内殿に納める。 延喜十二年中桃園貞純朝臣の計らいにより宝内殿に祀る空海の刻んだ金毘羅尊像を天慶二年源経基公から当社へ寄附され、天皇の勅願により東国の金神の総社とされた。 正慶元年以来代々足利公の崇敬を受け、文和二年に義寺を建立して別当とした。 更に永享四年足利家の守本尊十一面観音像を本地堂に安置し、増々繁栄の一途をたどるが、戦国時代、当地一帯はすべて焼き払われ荒廃の地となった。 十一面観音像は行方知らずとなったが、金毘羅尊像はかろうじて焼失を免れた。 その後、稲荷の里に移して祀られていたが、永正年中再び旧地に戻り新宿の鎮守として祀り"雀の森"と称したとある。
 以上のように本来は金毘羅三社権現と号していたが、旧社地に戻った後、氷川神社と社号変更をしている。 江戸期に度々関東に悪病流行し、各地に須佐之男命を祀ったが、当社もその折に氷川神社と称したと思われる。 往時の御神体と伝える「元禄五壬申天九月大吉祥日」「新宿村木野村長右衛門惣氏子」等の刻まれる「氷河大明神」の石祠(1メートル23センチメートル)が覆屋の裏手に現存することから、この時には既に氷川神社と称していたことが知られる。