「喜多見氷川明神縁起」
于斯武州下多磨郡中丸郷喜多見村にいます氷川三所大明神は御本地十一面観音也。
御垂跡は第一素盞嗚尊の御霊、第二其妻手摩乳・脚摩乳の御神の孤子稲田姫の御霊、第三大己貴尊の御霊なり。
是を氷川三所と云。
其濫觴を尋ね奉るに、
人王四十五代聖武天皇の御宇に喜多見村の南多摩川の流に最大成淵あり。
流水湛へて藍をそめ、深きこと千尋もやあらん、はかりかたし。
かかる深淵の底に毒蛇住て、風烈敷雨荒き夜は淵より出て、
或は多摩川の水上よりくだせる桴士を淵に沈め、又は近き辺の民家に入来て親をとられ子を失ふ。
[中略]
然るに喜多見村の傍に本国は出雲の国の士なりとて、父を神戸氏母を仁田氏と云人あり。
壱人の男子あり。其名を大管丸と云。いづれも心活如たり。
[中略]
予彼の大蛇の為に身命を捨て衆人の苦に替り侍らんは、伝聞、仏の薪水の労に似たりとて、みそかに淵の辺に行き神道の弓矢腋挟み岩をたたひて、不知や龍女は年八歳にして無上菩提を求め、女身垢穢の身を放れ成道正覚を得る。
汝生を殺し人寿をたちて多くの悲みを喜ぶこと、すべからく其罪達多が積悪に過ぐ。
速に立去べし。毒龍・諸鬼等念彼観音力と唱る声上は碧落下は奈落まで通じけん。
最をどろをどろしし。
河波頻りに立て長け十丈もやあらん毒蛇出て火を降らせ雨をふらせ黒雲の中にあらはる。
神戸氏特に久しけれは矢叫して放つに、矢つほを違へす大蛇の左の目にたつ。
大蛇尾を以て打事鋭し。
二の矢は眉間を砕く。
仁田氏・大管丸雷光の激するがごとく来て雌雄の二剣をなげて大蛇をしとむ。
皆人万歳を諷ふ。
東人是を奏聞せられければ、
則下多磨郡を賜ひて中丸郷に住給へは中丸殿と云。
然而北台と大管丸は世を早ふし給ひ、独神戸氏のみ住給ふなり。
ある時中丸殿御心持例に違ふ給ふにや、仕丁等里の長を呼て曰く、我はもと上界の衆なり。
苦衆生を済度せんと方便の像しかなり。
今は本土に帰らんずるに汝等涕泣する事を止むべし。
我が遺骸を送るに火葬を用いざれ。
兵具を相添納むべし。
凡眷属は九万八千の守護也とて、
西に向ひ三尊の御名を唱へ実相の文を誦して終りたまへり。
于時天平二年(庚辰)九月十八日午の刻の空金色の色をなし、大地やや動きて紫の雲の外に白衣を散んし、里人仰き見て皆未曾有成を拝し奉り、御遺法に任て住給ふ所を転じ、東南西の三所に棺物をあらため大蛇をしたかへ給ふ。
鉄の弓矢・同雌雄の剣に甲冑を添て尊躰を納む。
東は神戸氏の御塚、南は大管麻呂、西は仁田氏也。
鎧塚と名付今の鎧塚是也。
夫より十余年を過て鎧塚より夜な夜な白光を放ち月を重てとどまらざるよし都に奏す。
加之時の帝孝謙帝の御夢に火威の鎧着たる武士を御覧ぜらる。
其外天変とも多ければ是ただ事にあらすとて行基菩薩に御尋ましましけれは、菩薩則神通を現じ内典宮奥に入て見給ふに、彼の神戸氏は氷川の神の権化なり。
皇の宝祚を守護の為に分身し給ふよし奏せらる。
氷川三所明神と崇め物し給へと勅をうけて、菩薩中丸郷に至り給ひ都筑・多磨・橘樹の三郡を以良本を択み、三ヶ村に三社を崇め給ふ。
喜多見村には御父の神素盞嗚尊の神社(神戸氏の御霊也。本地十一面観音)宇奈根村には御母の稲田姫の神社(仁田氏の御霊也。本地薬師如来)大倉村御子の神には大己貴尊の神社(大管麻呂の御霊也。本地釈迦如来)と崇めて、行基自ら一刀三礼の尊像を刻み各安置し給ふ所也。
「新編武蔵風土記稿」巻之百二十七
(多磨郡之三十九)
喜多見村
氷川社
社地、六十坪、御朱印地の内、小名本村にあり、
本社東向、纔に五尺四方板葺、
神体長二尺許、烏帽子の如なるものを冠せり、行基の作、
社の廻りに古木立り、
拝殿は二間に二間半茅葺、
大門の通り長さ十五間、幅九尺、
前に石の鳥居を立つ、
両柱へ承応三甲午年九月九日、喜多見九太夫重勝・喜多見五郎左衛門重恒の数字、及びこの外当社は余が輩の氏神なれば、兄弟議して建るよしをもえれり、
後にのせるがごとく、当社に永禄の比再興の棟札元和以下のも五枚あれば、いづれ古くよりの鎮座なるべし、
別当寺の開山良尊は長禄元年十月寂せしといへば、その比の鎮座にてもあるにや、
慶安二年十月十七日十石二斗外に除地五石四斗余あり、
別当祷善寺 寺地、二百五十坪余、小名本村にあり、氷川社に並べり、
この寺元は氷川社の南にありしに、いつの頃かこゝへ移れりと、
今其旧地は畠となれり、
善明山華蔵院と号す、
天台宗東叡山の末にて深大寺の支配なり、
開山良尊長禄元年十月十七日遷化したるよしを伝れば、旧きより草創の寺院なるべし、
中興開山円盛貞享五年七月二十一日寂す、
客殿六間四面、本尊弥陀木の立像二尺餘なるを安置せり、
観音堂 門を入て左にあり、
堂二間半四方、
十一面観音は木の坐像にて、氷川明神社の本地仏なり