日前神宮 和歌山県和歌山市秋月 式内社(紀伊国名草郡 日前神社〈名神大 月次相嘗新嘗〉)
紀伊国一宮
旧・官幣大社
国懸神宮 同上 式内社(紀伊国名草郡 国懸神社〈名神大 月次相嘗新嘗〉)
紀伊国一宮
旧・官幣大社
現在の祭神
日前神宮日前大神(日像鏡)
[配祀] 思兼命・石凝姥命
国懸神宮国懸大神(日矛鏡)
[配祀] 玉祖命・明立天御影命・天鈿女命
本地
日前宮釈迦如来
国懸宮弥勒菩薩

「紀伊続風土記」巻之十三(名草郡第八)

日前国懸両大神宮上

両大神御霊宝

 日前大神宮 御霊代 日像鏡
 国懸大神宮 御霊代 日矛鏡
謹みて両大神宮の御霊宝を考ふるに 天照大神天ノ石窟に幽居コモリ坐しゝ時諸神思兼ノ神の議に従ひ石凝姥ノ神をして天照大神の御象ミカハタチ図造ウツシツクらる 初度ハシメ日像ヒカタ之鏡及日矛の鏡を鋳る(日像とは日神の御形をいふなり 矛とは柄のある鏡をいふなるへし下に弁せり) 其鏡少意イササカココロに合はす 次度ツギに又日像之鏡を鋳る 其鏡形美麗し是所謂八咫ノ鏡にて伊勢皇神宮の御霊宝なり 初度に鋳たる日像之鏡は即日前大神宮の御霊宝日矛の鏡は即国懸大神宮の御霊宝なり 天孫天降り給ひし時天神三鏡及種々の神宝を授け給ふ 皇孫尊日向国高千穂ノ峰に天降り坐し日前国懸の両御宝を斎鏡斎矛として八咫鏡と共に床を同しくて殿を共にして斎き祠らしめ給ふ 神武天皇東征の時大和に移らせ給ひ 夫より十世崇神天皇の御世まて大宮の内に斎き祠り給ひしに此御世に初めて三所の大神を外に斎き祠らしめ給ふ その本国に鎮坐しゝ原由は降臨鎮坐の條に詳にす

降臨鎮坐

謹みて両大神宮鎮坐の始末を考ふるに 崇神天皇の御世漸神威を畏み給ひ 天照太神の御霊宝五十鈴宮日前宮国懸宮の三神鏡を更に鋳さしめ宮中に斎き祠らせ給ひ 天孫の天降らせ給ひしより斎き奉りし三神鏡は豊鋤入姫命に斎き奉らしめて大和国より始めて諸国に鎮坐すへき地を覓給ひ 五十一年四月八日に本国名草浜宮に遷らせ給ひ三年の間宮を並へて共に住ませ給ふ 五十四年伊勢大神は吉備国名方浜宮に遷らせ給ひ日前国懸両大神は猶名草浜宮に留まり坐し 垂仁天皇の御世伊勢大神は伊勢国五十鈴川上に鎮坐し日前国縣両大神ば名草浜宮より伊太祁曽大神の旧地名草万代宮に遷り鎮まり坐せり(是今宮の地なり)

古代宮造

日前大神宮
  堂宮造屋禰八幡造檜皮葺也  千木(両方)  鰹木七本  面七間妻五間 中ノ間一丈三尺 脇間一丈宛(是を六尺五寸常間にすれば十二間に八間)  表大御戸二枚  傍ニ菅原御戸(二枚小御戸也)  裏ニ大戸二枚  前後御拝(前ノ御拝前一丈脇三丈三尺 後ノ御拝者一丈三尺四方)  刻鏤文飾あり
  内陣 面一丈二尺六寸妻五尺千木鰹木等あり
   宝蔵 一丈四方
本社の前にあり
   忌殿 面五間妻三間 本社の後にあり
此殿内に専女神社を祀れり
   庁 面五間妻三間
   中門 中ノ間一丈脇ノ間六尺宛妻六尺
東西二箇所にあり
   玉垣 四面にあり
東西二十二間南北三十二間
国懸大神宮
 宮殿内陣宝蔵忌殿庁中門玉垣等日前宮に同し
[中略]
大神宮寺 社外東辺
 本堂 三間四方
本尊釈迦如来
 寺 面五間妻四間
 鎮守社 三尺四方
 鐘楼 中間一尺脇間六尺
 青侍庁 面五間妻二間
按するに元暦元年日前宮政所より坂田村浄土寺への置文に当寺者大神宮本地之伽藍釈迦善逝之御霊像と云ふ文あり 浄土寺は国造槻雄弘仁年中建立する所なれは当宮の本地といふもさる事なるへし 然れとも宮地の内寺を建て本地仏なと唱ふる事はなかりしにや 百練抄に詳に奉幣條に出つ 是らを以て考ふれは宮地に仏舎を建て本地仏なとを置しは安元の頃より稍後の事なるへし

「中世諸国一宮制の基礎的研究」

紀伊国

Ⅰ-1 一宮

1 日前国懸神宮。 中世は両大神宮、日前国懸社、両社・両宮などとも。 日前宮と称されることが多い。 管見の限り、紀伊一宮を称した確実な文書は存在しない。
5 日前・国懸の本地は、釈迦・弥勒として「大日法帝の応化」とする説がある(根来要集 下)。 一方、『百練抄』によれば両宮の祭神が皇祖神「天照皇神の前霊」のため、「本地仏は所見無し、ただ鏡を用ゆ」とする。
6 11世紀半ばより神宮寺田が見られ(九条家本延喜式八裏文書)、鎌倉中期には、神宮寺領19郷、散在諸堂34箇所といわれ(感身学正記)、永仁年間(1293~99)の宮郷検注で在所がほぼ確認できる。 鎌倉期には神宮寺別当職をめぐり紀伊国造宣親と興福寺僧信暁の間で相論があった(春日神社文書)。 『紀伊続風土記』によれば、日前宮境外東側にあった日輪山釈迦院(本尊釈迦如来)が神宮寺という。 また、名草郡浄土寺が「大神宮本地伽藍」とされ「釈迦善逝の御霊像」を安置し、寺領は大神宮政所が管理する(和歌山市坂田 了法寺文書)。