久伊豆神社 |
埼玉県さいたま市岩槻区加倉4丁目 |
旧・村社 |
「新編武蔵風土記稿」巻之二百
(埼玉郡之二)
加倉村
久伊豆社
村の鎮守なり、
祭神は大己貴命にして、
本地仏十一面観音を安ず
「埼玉の神社 北足立・児玉・南埼玉」
久伊豆神社
岩槻市加倉1392(加倉字中島)
歴史
氏子の鈴木征夫が所蔵する古記録の写しには、加倉の開発と当社の由緒が記されている。
これによれば、加倉は、古くは箕輪之郷向原と称し、天文年間(1532-55)に斎藤勘解由之盛という者が土着して開発し、元亀年間(1570-73)に一村となったもので、当社はこの草分けの斎藤家の氏神として、また加倉村の鎮守として、馬坂という高台に勧請されたという。
しかし、馬坂も地が太田氏と相州北条氏との戦場になったため、境内は荒廃し、社殿も破壊されてしまったことから、元亀年間にその神霊を中島の地に遷して祀った。
岩槻落城の後も、神霊は旧地に帰ることを好まなかったため、その後も中島の地に祀り続けられ、大善院の祈願所となってきたという。
ちなみに、この文書に当社創建の地として伝えられる馬坂は、現在の社地の300メートルほど西方に当たる。
一方、『風土記稿』加倉村の項では、当社は「久伊豆社 村の鎮守なり、祭神は大己貴命にして、本地仏十一面観音を安ず」と記されている。
この本地仏の十一面観音は、神仏分離の際に失われたものらしく、現在は神牌だけで、それを納めていた筥には「正一位久伊豆大明神 文政九年(1826)八月神祇伯雅寿王勤遷之」の墨書がある。
また、別当であった本山派修験の大善院も神仏分離によって廃寺となり、わずかに法印墓地が残っているだけである。