兵主大社 滋賀県野洲市五条 式内社(近江国野洲郡 兵主神社〈名神大〉)
旧・県社
現在の祭神 八千矛神
[配祀] 手名椎神・足名椎神
本地 不動明王 大日如来

「兵主大明神縁起」

夫近江国野洲郡八崎浦に兵主大明神と申たてまつるは。 養老二年(戊午)十月上旬に此所にあらはれ給。 その初三ヶ夜。 金色の異光有て十八郷を照らすこと。 さながら白日のごとし。 人民不思議の思ひをなして驚きたふとみあへず。 中にも五條播磨守資頼と云人希代の思をなして信心肝に銘ぜしかば。 いかなる神の影向ぞと。 酉刻にをよびて八崎浦に参向。 しばしばゆきつつみちにまよひ。 情を定むる程。 とある所に立よりすこしまどろむうちに。 衣冠たゞしきかたちを現じおはしまして。 我は兜率天の主不動明王也。 衆生を済度せんが為に一百二十年前に矜迦羅使者を薬師如来と現し。 制多迦童子を愛染明王と変化してあま下ります。 則二大明神これなり。 われ今降臨して兵主大明神とあらはれんために。 二童子をかねてくだす所也。 汝が館にゆかん。 おしえにまかせば霊験を見せしめむ。 北斗を右眼の上に見てむかへと示し給ひて夢さめぬ。

「仏像図彙」

三十番神

兵主大明神(二十八日)

江州野洲郡兵主郷に在す
本地不動又大日
[図]

「かみとほとけのかたち: 湖南地方を中心とした神像と本地仏の世界 企画展」

不動明王立像 一躯

  中主町 兵主神社
  木造 像高57.4
  鎌倉時代(十三世紀)

 兵主神社の本殿に隣接して今も建物を残す旧不動堂(護摩堂)の本尊。 現在両手が肩から先が欠失し、台座・光背も失われており、明治以降の伝来状況が窺われよう。
[中略]
 不動明王は慶長九年(1604)の縁起によれば「われ今降臨して兵主大明神とあらはれん」とあり、兵主神社の本地仏である。 莎髻を結んで巻髪とし、天地眼に牙上下出する瞋怒相に表わされ、腰をわずかに右に捻って左足を少し踏み出して立つ。

延喜式神社の調査[LINK]より

兵主神社[LINK]

兵主二十一社と日吉山王信仰

兵主の神は、平安以来、栗東の金勝寺・比叡山延暦寺と深い関わりがあります。 特に、平安時代に成立した三十番神の信仰の普及と共に、神仏習合の形をとりながら、延暦寺の護法神である日吉の神々とも密接な関係を保って参りました。 日吉二十一社の制度に倣い、各末社の神々を組み込んで、中世末には、兵主二十一社の制度が確立されたと思われます。
二十一社は、上七社・中七社・下七社に分かれますが、現在、兵主祭に朱塗りの楼門に鎮座されます七社の大神輿は、その内の上七社の神輿と伝承されています。 又、兵主二十一社の旧社名(明冶初年に現社名に改称)の中に、日吉二十一社と同一の社名が七社見られ、いつの時代にか勧請したことが伺えます。
尚、江戸時代には本地垂迹思想の元、兵主の神は不動明王が本地仏とされたと同様に、各末社の神々もそれぞれに本地仏が決められた記録が残っております。
当社に残る記録より、兵主二十一社についてまとめてみました。

兵主二十一社、祭神と本地仏
上七社(祭神)(本地仏)
本社兵主大明神大己貴命不動明王
西河原村末社二ノ宮大明神天児屋根命薬師如来
堤村末社狩上大明神事代主命毘沙門天
吉川村末社箭放大明神天少彦命毘沙門天
安地村末社戸津大明神三穂津姫命虚空蔵菩薩
小比江村末社箭取大明神手力雄命毘沙門天
比留田村末社悪王子五十猛命愛染明王
中七社(祭神)(本地仏)
五条村末社乙殿大明神稲背入彦命薬師如来
 上津宮不詳隆三世明王
 聖社不詳地蔵菩薩
六条村末社三ノ宮高光照姫命十一面観音
野田村末社宇佐八幡應神天皇阿弥陀如来
野田村四ノ宮光照姫神虚空蔵菩薩
 廣田不詳阿弥陀如来
下七社(祭神)(本地仏)
兵主境内社手洗御前岡像女神弥勤菩薩
 今王子不詳薬師如来
 大行事不詳毘沙門天
 八宮不詳弁財天
井口村末社千原大明神素盞嗚命地蔵菩薩
須原村末社苗田大明神稲田姫命大日如来
吉地村・木部村末社悪王子五十猛命愛染明王
資料:兵主神社の記録(明治29年) 御神躰改帳(明治初期)