率川神社 奈良県奈良市子守町 式内社(大和国添上郡 率川坐大神御子神社三座)
大神神社の境外摂社
現在の祭神 姫踏鞴五十鈴姫命・玉櫛姫命・狭井大神
本地
率川大明神釈迦如来
(各別)率川大明神十一面観音
子守大明神地蔵菩薩
住吉大明神阿弥陀如来

「古社記断簡」

春日御正躰事

一宮 不空羂索観音(或尺迦如来)垂跡鹿嶋武甕雷尊
俗形(六十許)御座、冠オイカケ、タレヲナシ、持笏、コマヌキテ太刀ハキ、ヒチ(臂)ヲサシテアサキ沓、ツルハミノ袍也、
二宮 弥勒如来(或薬師如来)垂跡香取斎主尊
俗形(六十許)、ヒケナカク、ツルハミノ袍ニ帯剣シ給ヘリ、ヒチ(臂)ヲサシテ、冠ノオイカケナシ、左御手ニ持笏、右手ニテ笏ノサキヲカカヘテアサキ沓也、
三宮 地蔵菩薩 垂跡天児屋根尊
僧形、コマヌキテ、法服、衲袈裟、草履ヲ用給ヘリ、
四宮 十一面観音(或大日如来)垂跡相殿姫大神
御形吉祥天女ノ如シ、カサリタル宝冠シテ、コマヌキテ御座、
若宮 聖観音、(或文殊)垂跡童子形
童子形ヒンツラニテ合掌、コシカケ用ヰ給ヘリ、
率河 釈迦如来
俗形、冠ノヲヒカケタレヲナシ、束帯ヒラヲサシテ、コマヌキテ、持笏、表袴、浅沓(ヤマハトイロ)
水屋 薬師如来
形躰毘沙門ノ如シ、牛頭頂上ニ現ス、右ノ手ホコヲツキ、左御手腰ヲオシテ、ヘウノ皮コシニマキテ、カミハソラヘアカリテ御座、カツマ(羯磨)ヤウニテ、ハキニトラノ皮ヲマク、
氷室 陳那菩薩
俗形(ニ十許)、赤色ウツラキヌ、ヒチ(臂)ヲサシテ、冠ノヲイカケシテ、コマヌキテ持笏、浅沓
一言主 不動尊
女躰、御装束吉祥天女ノ如シ、キヌカフリシテ、ウチワニテ御顔ヲサシカクシテマシマス、
榎本 毘沙門
老躰形、唐人、ヒケナカクヤセ、カセツエ(鹿杖)ツキテ、唐人トキン(頭巾)ウシロヘタレ給ヘリ、

向村九音「創られた由緒 —近世大和国諸社と在地神道家—」

附論 『大乗院寺社雑事記』を中心に見る率川神社 —中世期に形成された像と機能—

はじめに

 率川神社は現在、大神神社の摂社とされ、姫踏鞴五十鈴姫命(中殿)、玉櫛姫命(左殿)、狭井大神(右殿)といった子・母・父の関係に当たる三神を祀る。 別称を春日三枝神社・三枝神社・子守社という。 本殿の東側には同じく延喜式内社である率川阿波神社がある。 率川阿波神社の祭神は事代主神である。
 しかし、こうした由緒が「公認」されたのは、比較的新しく、明治に入ってからのことである。 そもそも率川神社は『延喜式』神名帳に「率川坐大神御子神社三座」と記される大神神社ゆかりの神社であった。 しかし、中世から近世においては、興福寺の管理下にあり、春日社の末社とされた。

第三節 中世における率川神社祭神にまつわる言説

 『雑事記』において、率川神社が大神神社ゆかりの神として語られることはなく、「三所之内一御殿ハ率川大明神、十一面、二御殿子守大明神、地蔵、三御殿住吉大明神、アミタ」(文明十五年九月二十一日条)とされる。 前掲の『率川社注進状』『率川御社御遷宮日記』も、本地の記載はないが、右と同様の祭神を記しており、中世の興福寺内では率川神社祭神が率川・子守・住吉の三神で認識されていたことが窺われる。 なお、阿波神社に関しては『雑事記』中に祭神を記す記事は見当たらないが、『率川御社御遷宮日記』では阿波神社と見られる小社について「率川神社〈一御殿東端〉ノ左方に。小社一宇御坐在。号天王云々。」と書かれ、牛頭天王を祀っていたことが窺える。
 中世の率川神社祭神は吉野水分神社の祭神と重ねられて説かれる。 以下に、両社の祭神と本地の祭神と本地について記した『雑事記』の記事を引用する。
【8】長享二年(1488)二月二十四日条
一 吉野愛染之宝塔聖御嶽万タラ持来、拝見了、相語、上御前ハ戍亥向也、
 南本地十一面、女体也、率川也、
 中本地阿ミタ、
 北本地地蔵、三十八所也、
 下御前者北向也、勝手大明神、
 西本地文殊、
 東本地毘沙門、持太刀座像也、
 亦末社共金上大明神、本地大日、
 牛頭天王薬師、八王子地蔵、
 佐ラケ地蔵、北野天神十一面、
一 奈良ノ子守社者南向也、云率川トモ云子守トモ、
 東十一面、女体、率川大明神
 中地蔵、三十八所、子守大明神
 西阿ミタ、住吉大明神
  南円堂巡礼ノ時、向未申方、一言主・大窪・率川ノ大明神ト申是也、
一 春日若宮ノ南三所ヲ三十八所大明神ト申、則吉野上御前也、然者三所ノ御次第可為如吉野歟如何、
 まず、一つ書き二条目に挙げられる率川神社祭神は、神名・本地とも先の文明十五年九月二十一日条と変わりないが、注目されるのは率川神が「女体」と書かれる点である。 率川神を大神神の御子神たる姫踏鞴五十鈴姫命として考えていた場合、女体とされることは何の問題もないが、尋尊にそのような認識があったかはあやしい。 むしろ、祭神のうち子守神の持つ水分神としての性格が率川神社を象徴するようになり、子守神の属性が前面に押し出されたためであろうと考える。
 さらに前後の条を見ると、一条目では吉野上御前(吉野水分神)・下御前(勝手明神)・末社の本地がそれぞれ記され、吉野上御前と率川神社の祭神・本地が共通することが読み取れる。 三条目の春日三十八所神社に関しても、吉野上御前と同体であるならば、祭神を同様にすべきかと検討されており、ここに吉野上御前―率川―春日三十八所の三社の同体説を確認できる。
[中略]
 吉野上御前―率川―春日三十八所の三社についての語りは、吉野愛染(安禅寺)宝塔院の聖が大乗院を訪れ、御嶽曼荼羅(吉野曼荼羅)を見せつつ行ったものである。 その中で、率川明神が十一面観音・女体とされ、吉野水分神社と春日三十八所神社との同体が説かれており、これらの説が吉野側からもたらされた形を取る。