| 石鎚神社 | 愛媛県西条市西田甲(口之宮本社) 愛媛県西条市小松町石鎚(中之宮成就社) 愛媛県西条市西之川丙(土小屋遥拝殿) 愛媛県西条市石鎚山頂(奥之宮頂上社) |
旧・県社 |
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| 現在の祭神 | 石土毘古命 |
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| 本地 | 大日如来 | 釈迦如来 | 阿弥陀如来 |
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横峰寺、先麓ノ小松ゟ坂ニカゝリ一里大坂ヲ上ル。 夫ゟ小坂ヲ上下スル事三ツ、又大坂ヲ上リテ少平地ナル所ニ二王門在リ。 爰ニ仏光山ト云額在、銅ニテ文字ヲ入タリ。 本堂南向本尊大日又権現ノ社在リ。 寺ニハ加賀ノ国ノ僧住持ス。 社壇ノ後薗ヲ通リテ未申ノ方ノ峯ニ上ル事五町、爰ニ鉄ノ鳥居在リ、爰ニテ石槌山ヲ拝シテ札ヲ納テ読経念誦ス。 石槌山ニハ大雪降積テ白妙ナリ。 一昨日里方ハ時雨シタリシカ山々ハ皆雪也ト。 夫ゟ元ノ如ク坂ヲ下テ保寿寺ニ還タリ。 其夜ハ此寺ニ宿ス。 上下六里。 石槌山太権現、本地阿弥陀如来、嶽迄ハ十二里也。 爾レトモ六月一日ニ山上ス、余時ハ山上不成也。 右横峯ニ札ヲ納ルナリ。
凡四国遍路八十八箇寺の内所有二十六番
[中略]
横峰寺(六十番) 在周敷郡 山上西向
本尊 大日(座像二尺三寸行基作) [中略]
里前神寺(六十四) 在同郡[新居郡] 山上東向
本尊 阿弥陀(秘仏)
本札所は石槌山と号して麓より十二里甚高山也、 毎六月三日可登、 其余不能登故に里前神寺に於て納札す、 石槌山の華表前横峯寺に有り
御本尊大日如来 坐像御丈三尺三寸行基の御作。 石鎚山蔵王権現の本地仏であります。 当寺は白雉年間石鎚山西の別当として役行者小角の開創で、常住に石鎚蔵王権現の示現を拝し霊木石楠木で等身の尊像を刻みましたが、其後石仙道人登山して修錬を凝し常住舎に安置し、明治の初め神仏分離の際当寺に遷奉されました。 大同年間には大師登攀して護摩供を修し伽藍を建立し、紀念として小瓶に杉の苗を入れて土中に埋め加持せられたのが大同杉で、大師堂から一町行つた右手に今に残つてゐます。 桓武天皇の勅願寺となり諸帝武人の信仰を得た霊利です。
[中略]
◇石鎚山 四国第一の高峯で海抜六千五百三十七尺の頂上に県社石鎚神社が祀つてあります。 祭神は伊邪那岐命の第二御子石土毘古神で、役行者の崇拝厚く後石仙道人常住舍(今の成就社)を創立したのに始まります。 山中には朝日の窟、朝日ヶ嶽、高瀑等行者修錬の跡があります。 横峰寺から頂上まで百二十町、旧石鎚本社の成就社まで八十町、星ヶ森を越えモエ坂三十町にて加茂川の谷に下り、再び登つて黒川、成就社を経て頂上に達します。
御本尊阿弥陀如来 外に西之川奥の院御本尊釈迦如来は、役行者御自刻石鎚山蔵王権現の本地仏であります。 当寺は石鎚山東の別当として役行者の開創で、西之川に屹立する高さ二十五丈八尺、周囲二十二間の巨岩天柱石(御塔石)の下で蔵王権現を感得せられたに始まり、後石仙道人修錬の地であります。 当寺は廃仏毀釈の法難に遭ひ明治八年までは石鎚神社口の宮にあつたのであります。 大師著「三教指帰」(初め聾瞽指帰と言ひ十八歳の御述作にして二十四歳の御時修補改題)に「或跨石峰以絶粮喊軻 」と記されてある如く、大師は既に僧前室戸の帰るさ石鎚山に登攀して苦行せられ、四国霊場御開創の時は当山にて護摩秘法を修されたのでありまして、桓武天皇は国司に命じて伽藍を建立せられ金色院の院号を下して勅願所と定められ、諸帝武将の尊崇も厚かつたのであります。
第六十四番 前神寺 洲之内
正しくは里前神寺。 別に奥前神寺が成就にある。 寺記によれば、一千三百年の昔、役小角が修業中、釈迦如来が垂迹して石鉄蔵王大権現となって現われこれをまつる。 石鉄山金色院と号する。 もともと、全国の石鎚行者を傘下におさめていた。 しかし、明治三年(1870)の、時の政府の政策による神仏分離令によって一時は廃寺になっていた。 明治十年からは現石鎚袖社の場所より鐘楼大師堂(のち焼失)だけを現在の位置に移した。 なお、神を使うのは不都合とされ、前上寺としていたが、明治二十二年に前神寺と復称することができた。 昭和二十三年真言宗石鉄派総本山として独立した。 本尊は阿弥陀如来である。
第六十番 横峰寺 小松町石鎚
四国八十八か所の中で難所の山岳寺として知られてきた。 本堂は神社風の権現造りとなっており、石鎚信仰と表裏一体の歴史をつづってきた。 本堂には石鎚蔵王権現の懸仏と本地仏の大日如来をまつる。 寺の縁起によると修験道の開祖、役小角がこの森で修行中、石鎚山の頂きに蔵王権現の姿を見て寺を開創、のち石仙行者が石楠花の木に大日如来を刻んで本堂に安置したとされる。 弘法大師も、大同年間(806~9)、四二歳の厄除けの護摩をたき星供養をしたと伝えられる。