伊太祁曽神社 和歌山県和歌山市伊太祈曽 式内社(紀伊国名草郡 伊太祁曾神社〈名神大 月次相嘗新嘗〉)
旧・官幣大社
現在の祭神
本殿五十猛神
左殿大屋都比売神
右殿都麻都比売神
本地 阿弥陀如来・地蔵菩薩・弁才天

「紀伊続風土記」巻之十七(名草郡第十二)

山東荘 伊太祁曽村

○伊太祁曽大明神社 境内 東南九十六間南北百三十二間 禁殺生
 本社(二間五尺二間三尺)
  祀神 五十猛命
 左右脇宮(各七尺八寸七尺三寸)
  祀神 大屋都比売神・都麻都比売神
  庁(三間十二間) 御供所(六間四間) 神楽所(四間二間半) 鳥居(二基)
  反橋 宝蔵 御太刀宝蔵 瑞籬(九間十三間)
 末社二社(三坐合祀社・恵美須社)
延喜式神名帳ニ云名草郡伊太祈曽神社名神大月次相嘗新嘗
本国神名帳名草郡正一位動八等伊太祈曽神
[中略]
 中世之社殿(寛永記所蔵)
本社 面行二間半
妻行二間四尺
両脇二社 面行七尺八寸宛
妻行七尺三寸宛
合三社 昔は色々彫物金物
同彩色古今檜皮葺
瑞籬四十間 内十二間玉籬
拝殿 昔は長十一間横二間半
今は七間・二間半瓦葺
御供所 昔面六間妻三間半
今五間に二間瓦葺
護摩堂 二間四方瓦葺
同寺 昔は面六間妻四間
今は坊主の台所斗堂へ作り懸長日護摩
 以上 美濃守再興
鐘楼堂(二間一間半 瓦葺南向) 桑山治郎法院再興
反橋 鳥居二 御輿三丁(大桙三長三間 小桙四長九尺) 宝蔵(方二間)
御輿蔵(長三間妻行二間瓦葺) 神宮寺(本尊阿弥陀 三間四方堂間 四方一間掾)
両庁(長六間横二間) 舞台(二間半二間) 金燈籠(三本) 山林(二町四方) 馬場(南北二町)
 按するに上古の社殿其伝を失ふ 今こゝに載する所は根来寺領となりて後に造営する処にして天正年間のさまと見へたり
[中略]
○興徳院(亀屋山延寿寺) 真言宗古義京勧修寺末
村の南にあり 中世伊太祈曽社両部の時の神宮寺本地堂にて社地にありしを官命ありて社を唯一に復せらるる時当寺には除地を給はりて此地に引移せり(什物金鼓の銘に伊太祁曽明神御本地堂とあり) 古写の大般若経を蔵む 又伝へいふ伊太祁曽の神宮寺に長寿院といへり 今廃絶す 興徳院は伊太祁曽の供僧六人の内明王院転して清僧となり院号を改めて興徳院となりしといふ 因りて明王寺村供僧の株の内明王院の株は絶たり

「紀伊国名所図会」巻之四

伊太祁曽神社

山東荘伊太祁曽むらにあり。 祀神五十猛命・大屋津姫命・枛津姫命の三座。 山東荘の生土神にして、例祭毎年九月十五日巳の刻、同郷矢田村伝法院なる御旅所へ、神輿渡幸の式あり。 初に啓行神さるだひこ・榊・五本の鉾・三張の弓箭・太刀・唐櫃・獅子・神輿三基なり。 社司および口須佐村の荘官、其外社家のめんめん、神楽乙女・神人・宮仕等、いとも厳重の御わたりなり。 還御の後、流鏑馬ならびに諸願成就の駈馬等のことあり。 本文にくわしくす。
【延喜式】神名帳に云く、伊太祁曽神社(名神大。月次新嘗・相嘗)。 【本国神名帳】に云く、正一位勲一等伊太祁曽大神。
[中略]
当社の大神は、神代のむかしより此地に鎮り座して、此国を木国と呼べる縁は、則此三柱の御神にぞましましける。 そはもと此三柱の御神は、素盞烏尊の子にましまして、初盞烏尊とゝもに、新羅国に天降りましけるとき、多く樹種をもちて下りましけるに、これを韓地には植ゑずして、尽持ち帰りて、遂に筑紫よりはじめて、凡て大八洲国の内に播植ゑたまはざる処もなく、青山をなさゞるかたもなし。 こゝをもて五十猛命を称へて有功之神とは申すなり。 かくてこの国に渡りて鎮りましけるが、三柱ともに木に有功ある御神なれば、即其地をしも木国とは号けしなり。 初は一所に鎮め坐せしを、大宝二年分ち遷しまつれり。 【続日本紀】文武天皇の條にみゆ。 大屋津比売神社は平田荘宇田森、都麻津比売神社は山東荘吉礼村に遷座せりといふ。 斯れば当社は甚も尊き御神なること、今さらいふもさらなり。 上代には闔邦に並べ称ふる御神もあらざりしなるべし。 今僅に山東荘の生土神として、毎年の九月十五日には、氏人等寄り集ひて、神事を執行へり。 此日六十六騎の流鏑馬、其外諸願成就の駈馬とて、神前の馬場にて行ふことあり。 甚壮観なり。 これ則永祚元年風祭の遺風なりといふ。 社伝に云ふ、一條天皇永祚元年八月三日、三箇の日ならび出でて、後また一箇となり、同じき十三日より芝まくりといへる大風起りて、人畜草木を損ふことはなはだしかりしかば、則この伊太祁曽神社に勅使をなしたまひ、風鎮の御立願ありしかば、大風立どころに止みて、人民のうれひなかりし程に、日本六十六箇国より国ごとに一騎づゝ、都合六十六騎の流鏑馬を献ぜられ、是よりして歳々怠ることなしといふ。 しかるに中世このこと絶えたりしを、今は氏人等の行ふなるべし。

亀屋山興徳院延寿寺

同村にあり。真言宗古義、勧修寺末。 本尊阿弥陀仏、座像、仏師春日の作にして、長二尺八寸。
護摩堂 不動明王の像を安ず。弘法大師作。
大師堂 弘法大師の像、作つまびらかならず。 当国にて四国八十八箇所巡拝の第三十六番に配す。 御詠歌、「もろ共に神も仏もへだてなくじひの二つをいたきそのてら」
当寺は最も古刹にして、開基つまびらかならず。 寺説に曰く、当寺は則伊太祁曽神社の本尊仏にして、中興は法印行性の再建なりとかや。

「北区誌」

伊太祁曽神社由緒記 小林国太郎

鎮座地
 和歌山県海草郡西山東村大字伊太祁曽西の谷の常盤山に鎮まります神社で、境内は東西九十六間南北百三十二間一万一千坪の地域を占めた官有地であったが、昭和二十六年無償払下げを受けて社有となった。

祭神
 本社 五十猛命又は大屋毘古命
 脇宮 大屋都比売命(左) 都麻都比売命(右、枛津比売命とも妻津比売命とも書く)
[中略]
御鎮座の由来
 上古に、伊太祁曽三神は今の日前国懸両神宮の宮地である名草万代の宮(又かうの宮、檜隈宮ともいう)に祀られ給い紀伊坐大神とたたえられ、木の国開闢の祖神と崇められていたが、垂仁天皇の十六年(およそ二千年前)日前国懸両神宮が名草浜宮からこの地に遷座し給うによって伊太祁曽神戸の地である西山東村の亥の森に遷られ、七百十六年後、さらに文武天皇の大宝二年二月三遷分社の官命があり、十一年を経て元明天皇の和銅六年十月初亥の日宮の修築がなって御遷坐の儀が行われた。
 即ち、五十猛命は、今の地に遷坐せられ大屋都比売命は川上村北野の艮にある大和御前の東の丘陵(村中の古い御幣を納める所小祠あり)の頂に、のちに今の字田森に遷され脇宮として左右に兄神妹神を祭られ、都麻都比売命は都麻都神戸の地である、今の東山東村平尾の西丘陵若林に遷され、やはり左右脇宮に兄神並姉神を配せられた。
[中略]
矢田伝法院との関係
 矢田伝法院は肥前の国藤津の人で高野山金剛峯寺の座主であった覚鑁上人によって創建された新義真言宗の寺院であるが、上人と山東とは、何時から関係が出来たかというと今から六百三十年程前の、天承元年高野山に密厳院と大伝法院を建て同年十月鳥羽上皇の行幸を仰いで落慶式をあげ、大伝法院で伝法大会を行い、この大会の供料として石手、弘田、山崎、岡田、山東、相賀、志富田の七ヵ所を賜ったことに始まる。
 あたかも矢田の庄司屋摩基という人、矢田郷に伽藍建立の志願をし、高野山に上人を尋ねてこれを請いともに山東谷に杖を引き、大池を開き、矢田に入り、錫を止めて七堂伽藍をつくり、明王寺宝生院と号し(後、伝法院と称するようになった)上人自ら二尺二寸の千手観音を香木で彫刻し、その中に天子から戴いた一寸八歩黄金の同尊をはめ矢田山伝法院と勅筆を染められ、丹生谷にあった丹生明神を後山に移し、高野明神を相殿とし、閃王寺及び十二の子院を建立し、鳥羽上皇の勅許をえて社家および供僧を置くことになった。
 これは長承二年前後のことである。 覚鑁上人は伊太祁曽の神は此の荘の大社であるから、伊太祁曽の奥の院とし、丹生社を下の宮とし、神輿渡御の御旅所となし、所謂両部神道となり、さらに伊太祁曽社の神域に神宮寺、僧坊、護摩堂、鐘楼等を建て供僧が祭事にあずかり、伊太祁曽三神の本地を弥陀、地蔵、弁才天として三尊の木像を作り込みてこれを祭り、祭祀は主として仏式に変わった。
[中略]
なお、両部神道の頃かかれた当社縁起の巻物がある。 これには、伊太祁曽の神を、或いは風の神級長戸辺命とし、或いは手力雄命に擬し、三神を弥陀地蔵弁才天の垂跡であるとして、末項に仏像を描いている。