厳島神社 広島県廿日市市宮島町 式内社(安芸国佐伯郡 伊都伎嶋神社〈名神大〉)
安芸国一宮
旧・官幣中社
現在の祭神
厳島神社市杵嶋姫命・田心姫命・湍津姫命
[左相殿] 国常立尊・天照大神・素盞嗚尊・高皇産霊神・神皇産霊神・生魂神・足魂神・玉留魂神・大宮比売神・御饌津神・事代主神
[中相殿] 軻遇突智神・埴山姫神・保食神・稚産霊神・倉稲魂神・豊磐窓神・奇磐窓神・埴安神・金山彦神・猿田彦神・興津彦神・興津姫神・罔象女神・天村雲神・屋船句句廼馳神・屋船豊宇気姫神
[右相殿] 八十枉津日神・神直日神・大直日神・底津海童命・中津海童命・表津海童命・底筒男命・中筒男命・表筒男命
摂社・客神社天忍穂耳命・活津彦根命・天穂日命・天津彦根命・熊野樟日命
末社・滝宮神社湍津姫命・素盞鳴命
本地
厳島大明神十一面観音
(各別)大宮大日如来(胎蔵)大日如来(胎蔵)・阿弥陀如来・十一面観音・普賢菩薩・弥勒菩薩・虚空蔵菩薩
客人宮毘沙門天毘沙門天・不動明王・釈迦如来・薬師如来・地蔵菩薩
滝御前千手観音 
聖御前不動明王 

「渓嵐拾葉集」巻第三十七(弁財天縁起 末)

日本国独胡形事

厳島者、胎蔵界大日如来也。 故以妻女為眷属也云々

「源平盛衰記」巻第十三

入道信厳島并垂迹事

そもそも厳島明神と申すは、推古天皇御宇、癸丑端正五年十一月十二日、内舎人佐伯鞍職と云ふ者、網鉤恩賀の為に、島の辺に経回しけるに、西方より紅の帆挙げたる船見え来る。 船中に瓶あり。 瓶の内に鋒を立て、赤幣を付たり。 瓶の内に三人の貴女あり。 其形端厳にして人類に同からず。 託宣して云、吾百王守護の為に本所を離れて王城に近づく、御宝殿並に廻廊百八十間造立して、我を厳島大明神と崇ぶべしと宣へば、鞍職言く、何なる験有てか官奏を経べきと。 明神答へて云く、王城の艮の天に、客星異光有りて出現せん、公家殊に驚て怪を成すべし、時に、烏鳥多く集つて、共に榊の枝を食へんと宣ひけり。 即ち摂津国難波の王城に、俄に千万の烏、榊の枝を食へて禁裏に鳴き集る。 鞍職奏して申す、是れは大明神の現瑞也と。
[中略]
御垂跡は、天照太神之孫、娑竭羅龍王之娘也。 本地を申せば、大宮は是大日、弥陀、普賢、弥勒、中宮は、十一面観音、客人宮、仏法護持多門天。 眷属神等、釈迦、薬師、不動、地蔵也。 惣じて八幡別宮とぞ申しける。 御託宣文に云く、「法身恒寂静、清浄無二相、為度衆生故、示現大明神」、御祓の時には、必ず此の文を誦すと申す。 法性不二の色身は、寂光浄土に居すれども、和光同塵の垂跡は、巨海の流類に交れり。

「厳島御本地」

抑々厳島大明神と申奉は。 我が朝すゐこてんわう(推古天皇)の御とき(御時)。 たんしやう(端正)五年きのへさる(甲申)十二月十三日に。 日本あきつしま(秋津島)せんやうどう(山陽道)安芸の国さゝいの郡とかげ村に。 しゆじやうさいど(衆生済度)のためにあとをたれ(跡を垂れ)玉ふ。
[中略]
御たくせん(託宣)により。まづかりどのをはじめとして。まづ大ごんせん(大御前)と申なり。 あしびきのみや(足引宮)の御事也。 御本地はたいぞうかい(胎蔵界)の大にち(大日)なり。 またあとよりぜんざいわう(善財王)の御事は。たづねさせ給ひていらせ給へば。きゃくじん(客人)に思召。まろうどの御ぜん(客人御前)とは申なり。 御本地はびしやもんてん(毘沙門天)にておはします。 たきの御ぜん(滝御前)は。からびくせんの御わうじ(王子)の御事なり。 御本地はせんじゆくはんおん(千手観音)にておはします。 ひじりの御ぜん(聖御前)と申は。かびら国の上人にておはします。 本地はふどうめうおう(不動明王)にておはします。

久保田収「神道史の研究」

厳島神社における神仏関係

神仏習合の結果は、本地垂跡の思想が生まれたが、これは厳島神社においても例外ではなかつた。 現在、大聖院に安置する十一面観音は、明治の神仏分離までは、厳島神社の真後ろにあった本地堂すなはち観音堂に安置されてゐて、平安時代中期のものと考えられる。 これは、『芸藩通志』に「仏氏は観音を以、明神の本地といふ」とあるやうに、厳島明神の本地を十一面観音と考へてゐたことを示してゐる。
棚守房顕が安芸の吉田で毛利元就に対して語つたところを記した「厳島草創記」に、大宮の本地を大日・普賢・十一面・阿弥陀・弥勒・虚空蔵とし、客人社の本地を毘沙門・不動・釈迦・薬師・地蔵となすと共に、観音堂を「両者の御本地十一面」としてゐる。 すなはち、大宮の祭神六座、並びに客人社の祭神五座に、それぞれ本地が定まつてゐると同時に、厳島社全体の本地が十一面観音であると信ぜられてゐたのである。 この考へが、以後江戸時代まで伝へられてゐたことは、『道芝記』から知られるが、ここにみえる本地堂の本地仏と、大宮の大明神の本地とが異つていることはふしぎであるが、これは混乱した中世的思想を反映するとともに、また本地を十一面観音とする考へと、大日如来とする考へとが、両々流れてゐたためであらう。
大明神の本地を観音とする考へがみられるのは、長寛二年(1164)九月に平清盛の記した厳島社の平家納経の願文であつて、その中に「相伝云、当社是観音菩薩之化現也。」といひ「何况、百界千如、説而為経、謂之妙法二十八品、願而為人、謂之観音、従本垂迹、現而為神、謂之当社、本迹雖異、利益惟同。」とある。 また本地を大日如来とするものは承安四年(1174)三月に右大弁藤原俊経の草する『建春門院厳島御幸願文』(『芸藩通志』所収)であつて、「夫当社者、尋内証者、則大日也。有便于祈日域之皇胤、思外現者、亦貴女也。無疑于答女人之丹心。」とあり、また鎌倉時代の著作である『古事談』に「日本国中大日如来ハ伊勢大神宮ト安芸厳島也。」とある。 時を同じうしてこの両説がみられるが、平家と厳島社との密接な関係、ことに久安二年(1146)に安芸守となつた清盛との関係を考へると、清盛の文の方が厳島における伝来を伝へてゐるといへよう。 従つて、主として観音を本地として信じられてきたが、その伝承の中に大日説も根強く残つたのであらう。 『いつくしまのゑんぎ』『いつくしまの御ほん地』(共に『室町時代物語集』所収)などには、同じく十一面観音としてをり、また『厳島社頭和歌』(『続群書類従』所収)にも三十三首和歌奉納のことがあるのも観音に因むものであるが、一方『いつくしま』(『神道物語集』所収)の如きは、胎蔵界の大日としてゐる。
ただし、観音堂が本地堂の名で呼ばれたのは、余り早いことではなかつたらしい。 『道芝記』には「くわんをんたう」として描いてをり、その本文には「夏堂」といひ、「毎年卯月八日より樒を摘故に夏堂と云なり、堂中に十一面観世音を安置して大明神の御本地と云り。」とあつて、夏堂とある。

「中世諸国一宮制の基礎的研究」

安芸国

Ⅰ 一宮

1 厳島神社。 平安~鎌倉時代には伊都伎島神社と表記されることが多い。
5 平安時代の史料には「一宮権現卅三社御前」(新出厳島文書)・「伊都伎島大明神卅三社宇豆広前」(同文書)とあり、33柱の神が合祀されていたとみられる。 また、大宮(大御前)。中宮(中御前)・客宮(若宮)の3大神からなっていたことも知られる。 祭神に市杵嶋姫命を主神とする、いわゆる宗像3女神があてられるようになったのは。鎌倉期以降のことである(釈日本紀)。 本地については、長寛2年(1164)9月の「平家納経願文」に「当社是観世音菩薩之化現也」とあるのが早く、承安4年(1174)3月の「建春門院願文」(本朝文集)では「夫当社者、尋内証者則大日也」とされている。 平安期には、これに毘沙門天を加えて3本地仏とするのが一般的である(野坂文書)。 鎌倉期になると浄土信仰の影響から阿弥陀仏を本地仏とする考えも現れ、戦国期には庶民信仰の広まりとともに弁財天をこれにあてるようになった。
6 神仏習合の徴証は、平安中期のころに遡る。 『今昔物語集』巻17所載に極楽寺地蔵縁起譚によれば「伊調ノ島ノ祝師重正」という者が地蔵菩薩像を造って開眼供養を行い、自身の浄土引導と播磨国極楽寺に住する子息公真への功徳を授かったとあり、初期的な習合の様相を窺わせる。 平氏の時代になると、神社祭祀に仏教的要素が取り入れられ、島内外の建造物にも仏教関係のものが多く見出される。 治承元年(1177)10月には清盛一行を迎えて千僧供養などの諸行事が社頭で繰り広げられており(浅野忠允氏旧蔵厳島文書)、仁安3年(1168)に面目を一新した神殿舎屋には、本宮分として御読経所・経蔵・鐘楼、外宮分として神宮寺・法華三昧堂・御読経所2宇が存している(史料通信叢誌 第壱編 厳島誌所収文書)。
当社が習合した最初の宗派は、後伝の空海説話などから真言系と思われがちだが、建造物の性格からいえばむしろ天台宗であったとみられる。 治承元年頃の創建とされる水精寺には、神社の仏事を総轄する「宮島の座主」が置かれていた(高倉院厳島御幸記)。 水精寺は弥山を寺号とするが、当初は仏教の中心を担った陸地側に所在したと考えられる。 鎌倉期から始まる供僧方の移住に引き続いて、戦国期になると水精寺も島内に移され、座主の住坊であった大聖院がのちに別当寺水精寺を代表する名称となった。
7 仁安3年(1168)11月の「神主佐伯景弘弘解」(史料通信叢誌 第壱編 厳島誌所収文書)によれば、推古天皇癸丑年(593)に神が垂迹した際、佐伯氏以外の者を神主としてはならない、神事に当らせてはならない、佐伯鞍職の子々孫々をもって神主職となし、社殿の造営に当たらせよ、との託宣が下されたと述べている。 これを祖型とする鎮座縁起は、『源平盛衰記』巻13や『長門門平家物語』巻5の中に見える。 前者では、恩賀島(厳島)の辺りで釣りをしていた佐伯鞍職が、西方より紅の帆を上げた船が近づいてくるのを見ると、船中に鋒を立て赤幣を附けた瓶があり、そこに厳島明神を名乗る3人の貴女が乗っていたと記している。 後者はさらに説話的要素を増し、金色の鹿を射た罪により安芸国ささら浜に流された佐伯鞍職が無聊を慰めていると、紅の帆をつけた大船と見紛うほどの瑠璃の壺に乗った十二単の貴女と出会うが、これが遥か西の国から故あって遠旅を続けてきた厳島明神の姿であったという。
こうしたモチーフは、南北朝期までには成立したとみられる「いつくしまのゑんぎ」(厳島本地)に受け継がれていく。 その大略は次のとおりである。 天竺東城国の善哉王は西城国の姫足引宮を妻問いし自国へ連れ帰るが、父王の后妃たちの嫉妬にあい善哉王の留守中に殺される。 死の直前に産みおとした王子は、虎狼に養育されてのちに善哉王に出会う。 聖の助力で姫宮を蘇生させた王は、后妃たちへの復讐を遂げ、3人で天竺を捨てて新天地を目指す。 しかし、立ち寄った国で王が姫宮の妹に心を移したため、姫宮はただ1人安芸国にたどり着き、佐伯鞍職によって厳島の神として祀られた。