石城神社 山口県光市塩田 式内社(周防国熊毛郡 石城神社)
旧・県社
現在の祭神 大山祇神・雷神・高龗神
本地 釈迦如来・普賢菩薩・文殊菩薩

「石城山舎那院神護寺寺伝」

当山は異域勝熙四年戊申本朝人王第二綏靖天王即位五年初春上漸日三夜、防陽の南畔海中金輪際より湧出せる霊地なり、 上聞に達し帝奇異ナリト、所以人王第三代安寧天王臨幸あつて猶以奇ナリトス、 当山北の麓に其古跡あり、 然ルに西天痾陀国之天皇慈悲大験王は仏法帰依ス、元権者也、 大日本国は仏法東漸霊地なる事を考へ、有縁を求め給ひて崇神天皇即位元年秋八月に西天より五ツの剣を東に投ケ、有縁の地に留るべしと呪ス、 一ツは紀伊国牟婁郡に留る、 一ツは下野国日光山に留る、 一ツは淡路国踰鶴羽峯に留る、 一ツは出羽国石城山に留る、 一ツは豊前国彦山に留る、 委しくは古記の如し、 其後本国ヲ去リ五剣の跡を尋来りたまへり、 時に座像の大仏の釈迦、小仏の釈迦、普賢文殊の四体ともに毘首羯磨天之作ル木像を持して百済国にいたり、彼国の石城山に住して多々王に相対して日本の風俗を聞玉ひける所に、仏法未タ東漸なき由を聞玉ひて、彼仏菩薩の像は石城山置キ、帝供の人々入朝有、 先彦山に住居有し、夫より東国御幸の砌り龍頭鶏骨此山え寄懸り給ふ、 三方の海原俄かに皆平地となりぬ、 龍頭出て走ル事あたはず、此山に鎮座あらんとて四穴を搆へて家とす、 其後熊野山え御幸なり、 彦山に拾穴、熊野山に九穴、日光山に七穴、踰鶴羽に八穴、出羽国石城に四穴、当山に四穴あり、 委敷は古記如し、
人王第十四代仲哀天王、百済国聖明王と相親琳聖太子をこふす、 本朝を付属せんと約し給ふ所に、応神天王出生し給ふ、 故に周防国山口に聚路を移し琳聖太子を招く、 太子来朝の刻大験王伝授の彼四体の木像を持来りし給ふ、 大仏の釈迦の像は長州向津二尊院に創建ありて立給へり、 琳聖太子国内臨幸の序、当山に九月九日に駕して曰ク、 古国百済国の石城山にたがわずとて、件の釈迦・普賢・文殊の三尊を当山に移して三社大権現と顕し、生老病死の魔を払ひ、一時礼拝の月之前には百千億の願望を満つ、 人王三拾壱代敏達天王叡聞ありて、勅而石城山と勅額シ給ふ、 開山之儀は高麗国の僧恵慈和尚、人王三拾四代推古天王壬申ノ年也、 神護寺の号は人王四拾八代称徳天王天平神護元年に長州臨幸之刻、勅而舎那院神護寺と被附置也、
伝に曰、周防国式内十社の中石城神社の濫觴を尋るに、降臨化現の神にして勧請鎮座の社にあらす、本朝人王の始より神おのつから鎮りましまし、神鏡五峯四窟の霊山にして、あたかも城郭をきつけるがごとく常立不易の神祠なればにや石城山と名附侍る、 今麓に十邑を抱き五村のあいたに蟠根し、社頭里より隔りて、さがしく高きこと大鳥井より二拾有余丁なり、 俗詞に伝へて西の富士と称するも実に宜なる事にそありける、 所謂爰に斎き奉り鎮りまします神は大山祇神なり、 則日本書紀に記せる伊弉諾尊五行の神を生し給ふのとき、火の神軻遇突智を三段にして各々神となる、 大山祇神・雷神・高龗とぞ称す、是則当社の大神也、 中について人王三拾代欽明天王の御代しろしめすころをいに当りて、いみじき勅ありて諸国郡県に式内の社を定せ給ふ、 周防の国十神の一ツにして石城三社大権現と称し奉る