飯縄権現堂 東京都八王子市高尾町 高尾山薬王院有喜寺(真言宗智山派大本山)の本社
現在の本尊 飯縄大権現
本地 不動明王

「新編武蔵風土記稿」巻之百二下
(多磨郡之十四下)

原宿(上椚田村)

飯縄権現社

山頂に鎮座す、 縁起を案するに永和年間有喜寺中興沙門俊源、この神を勧請して一山の鎮とす、 是よりして世々座せり、 神体は白狐に乗たる像にて、長二尺ばかり、 往古異人の彫刻する所なりとて、移して開扉することなしと云、 本社九尺四方、南向なり、 脇障子高欄付、二重垂木、二手先造、外羽目通、惣彫彩色、 内陣扉前九尺四方、 その前階八級ありて幣殿に至る、 幣殿は大さ五間に三間、 格天井絵画あり、左右に燈窓を設く、 拝殿六間半に三間半、 出し組二重垂木造、此所も格天井にて画あり、 惣丹塗、向拝長二間半に脇九尺、 雲龍の彫もの橡に高欄を設け、向拝に鰐口をかく、 本社幣殿の廻りに瑞籬あり、東西五間、北裏六間、 丹塗の欄間花鳥の彫物彩色を加て、屋根は銅瓦にて其余は板葺なり、 年々三月二十一日祭事あり、これを御影供と号す、 翌る二十二日大般若を転読す、 この二日遠近の人頗群衆す、
鳥居二基 一は麓にあり、南向にたてり、是を一ノ鳥居とす、 柱間二間控柱付、高尾山の三字をかく、松平越中守定信が書なりと云、 一は山上薬師堂の傍にたてる神楽堂の西の方にあり、東に向へり、これを二之鳥居と号す、 両柱の間二間、飯縄大権現の五字をかく、これも近き比酒井雅楽頭忠道が書しものなりと云、 こゝより石階数十級を上りて社前に至る、
[中略]
末社 愛宕祠 本社に向て右にあり、銅瓦葺大床造り、五尺に五尺八寸、北向なり、将軍地蔵の木像を安す、白馬に乗たる貌なり、長一尺二寸ばかり、古北條氏より寄附せし所なりと云、
天満宮 本社の東の方にあり、西向なり、小社杉皮葺、神体は木の坐像にて長五寸許、
摩利支天社 天満宮の北の並びにてこれも社は同じ造作なり、神体は三足の鳥に乗りし木像なり、長一尺二寸許、作知ず、
松尾社 同並にて北の方なり、大さ前と同くして橡葺なり、覆屋九尺に七尺、神体は白幣なり、
太神宮八幡春日相殿社 本社に向て左にあり、松尾社と同大さにして、板葺なり、上屋は塗籠にて九尺に七尺、三座ともに白幣を神体とす、
弁天社 三社相殿社の並にて北の方にあり、これも社は同大さにて、杉皮葺なり、神体は坐像にて長七寸、十五童子の像長各五寸許、
稲荷社 これも同辺にあり、この所の鎮守なり、正一位稲荷と号す、南向にて四尺四方、こけら葺なり、神体は木の立像にて長一尺ばかり、前に鳥居をたつ、例祭は年々の四月の初の卯の日なり、
奥院三社 奥院は社地後背の山なり、末社弁天と稲荷との二社の間に坂あり、これを奥院坂と呼ぶ、坂口より四五十間登りて社地あり、平垣の処は纔に十六坪ほど、矢来を置く、四辺は松杉鬱蔚としていとものすごし、
飯縄本地社 南向なり、社四尺四方橡葺なり、本地石の不動、長九寸ばかり、立像にていと古質なる者也、
浅間社 これも南向にて、本地社の左の方にあり、白幣を神体とす、社は前におなじ、
大天狗小天狗社 浅間社に向て左の方にあり、是も白幣を神体とす、社は二尺四方、板葺なり、東に向ふ、覆屋九尺に七尺、橡葺なり、
別当薬王院 境内、東西五十町余、南北三十五町余、飯縄社の未の方なる平地にあり、高尾山有喜寺と号す、 京都醍松橋無量院末、新義真言宗なり、 大猷院の御時、寺領七十五石の御朱印を賜ふ、 開闢の来由を尋ぬるに、聖武天皇の御宇天平十六年行基菩薩開創せしを始として、其後のことは年代はるかなれば、興廃得て知るべからず、 後円融天皇の御宇永和年間沙門俊源と云もの中興して、飯縄の神を山頂に安置せしよりこのかた、歴世綿々として伝燈たえず、現住秀神に至るまで十八世に及といふ、 [中略] 本堂巳午向、九間に七間、本尊大日は木の坐像、長二尺五寸許、左右に不動愛染を安す、 その右の間は護摩修法所なり、本尊不動木の立像にて、二尺ばかり、 又別に同く坐像の不動を安せり、長一尺七寸許、是は弘法大師の作と云