地主神社 滋賀県大津市葛川坊村町 旧・村社
現在の祭神
地主神社国常立尊
[配祀] 山王大宮・賀茂明神・平野明神・松尾明神・三輪明神・鹿島明神・江文明神
末社・思古淵明神思古淵神
本地
地主権現薬師如来
思古淵明神文殊菩薩

「近江国輿地志略」巻之三十
(志賀郡第二十五)

葛川寺[LINK]

〇葛川寺  坊村にあり。 北嶺山息障明王院葛川寺と号す。 開山無動寺相応和尚なり。
[中略]
【行脚記】曰、相応和尚二十九歳の時、三密瑜伽功積り、五相成身秋深成て、漸行業に誇て、生身の明王を拝せんと思ひ、祈念し給ひし所に、今の霊場の地より、五色の雲立て三津の浜に靆き、遥に比良の峯の西、阿曇川に至る。 和尚不思議の瑞雲也、我祈念する所の本尊に可奉値瑞雲也と思召て、彼雲を尋て比良嶺の西葛川に至り、件の瀧川水上をたづね上たまふに、一の瀧有り。 則千手千眼の光あざやかに出現し給ふとき、さればこそ不思議の所なりと思、則第一の瀧と申なり。 其後またその水上にたづね入玉ふに、また一の瀧あり。 生身の毘沙門あらはれ玉ふ。 是も我祈念の本尊にあらずといひしかば、忽に尊像かきけす如くに見へ玉はず。 瀧つぼに亦大威徳明王出現し玉へり。 是も我たづね申所の本尊にあらずといへば、則瀧つぼに牛形にて大石と成て、今にいたるまで是御座。 是第二の瀧と申なり。 さてその後阿曇川の源に尋入玉ふに、峨々たる峯には千里白雲まよひ易、幽々たる深谷には一声山鳥わづかに聞、深山に入て思惟仏道し玉へば、爰に一の瀧有り。 碧岸静にして白浪はるかに流れたり。 瀧の中に一石あり。 其形礼盤に似たり。 和尚礼石に座し、一心に明王を祈念し、一七日の間、刹那も座を動かずして座し玉ふ所に、一人の老翁忽にあらはれ、頭に霜を重ね、眉には月を垂がごとし。 和尚問曰、化現の老翁は何人ぞや。 老翁又問曰、われをとふ所の汝は誰ぞ、 此深谷の清瀧、凡夫の不来所なり、何故に来るや。 和尚答曰、われは是天台山円仁和尚の門弟なり、生身の不動を拝せんために、修行して来なり。 時に老翁歎じて曰、善哉々々、此劫初より以来惣じては、三界を領し、別しては此砌を領して、暫時此所を不離、この領地の内に、十九の清瀧、七流の清川あり、 この内へは昔しより人不来。 和尚は是大聖明王の化身なり。 爰を以て仏法修行、霊験の勝地として、慈尊出世三会の暁を期し、正しく大菩提の行を修し給ふべし、此瀧は是十九の内第三の清瀧、都率の内院に通ず。 是を葛川瀧と名づく。 自今以後は、我仏法修行の人を擁護して、龍花の筵をまたん。 我名を信興淵大明神と申す。 本地は是三世諸仏の智母、大聖文殊の化現なりと、云ひ終て隠れて見へず。
[中略]
○地主権現社  坊村にあり。 葛川寺の鎮守なりといふ。 然れども、葛川寺創建の以前より有る社なり。 【行脚記】曰、信興淵大明神、是社なり。 貝原氏の【諸州巡の記】に、色仏大明神につくる。 或書に思子淵に作。 思子淵の事子細あり。

「日本の神々 神社と聖地 5 山城・近江」

地主神社(小栗栖健治)

 安曇川の上流坊村に鎮座し、葛川谷八ヵ村の大宮(総社)として信仰を集めてきた。 祭神は国常立命。 明治以前は地主権現社と称した。 末社として思古淵社を祀っている。
[中略]
 葛川明王院は貞観元年(859)慈覚大師円仁の弟子相応によって開創されたが、その由来譚に思古淵神が登場する。 すなわち、裏比良の山中に修行に入った相応は、老翁の姿で化現した思古淵明神に出会って託宣を受け、その眷属である常鬼・浄満の案内を得て三の滝にいたり、生身の不動明王を感得した。 そして思古淵明神からその棲地を譲られて明王院を建て、思古淵明神は明王院の鎮守神になったという。 安曇川流域を中心に思古淵社が多く分布することはつとに知られているが、この伝承は思古淵神が安曇川流域の地主神であることを物語るものである。
 一方、『葛川行者参籠日記』には「本地事」として、地主権現は薬師如来、思古淵明神は文殊菩薩であると記されており、当社が地主権現として日吉二宮(東本宮)を祀っていたことが知られる。 日吉二宮を主神とし、土俗的な神である思古淵明神が末社とされたのは、葛川が山門領荘園となったからであろう。 地主権現という名称も、本来は思古淵明神をさすものであったと思われる。