賀茂別雷神社 京都府京都市北区上賀茂本山 式内社(山城国愛宕郡 賀茂別雷神社〈亦若雷 名神大 月次相嘗新嘗〉)
山城国一宮
二十二社
旧・官幣大社
片山御子神社 同上(賀茂別雷神社境内) 式内社(同 片山御子神社〈大 月次相嘗新嘗〉)
現在の祭神
賀茂別雷神社賀茂別雷神
摂社・片山御子神社玉依比売命
本地
上賀茂社聖観音釈迦如来
片岡社十一面観音

「諸神記」

賀茂[LINK]

賀茂
下社 御祖社 別雷神ノ御父座也
大山咋神 松尾日吉等同体座也
本地 釈迦
上社 別雷神 本地 無所見

「類聚既験抄」

賀茂大明神御事(四月中酉日□之云々)。
上宮(別雷皇大神ト称ス。御本地観音)
片岡社。
太田社(上別雷御祖)。
下宮(鴨内祖皇大神ト称ス。鴨御祖社)。
河合社(多々州下御祖)。

「賀茂之本地」

此神天上にしては、あちすきたかひこねの神(阿遅鉏高日子根神)と申。 地にくだらせ給ては、わけいかづちのしん(別雷神)とあらはれ、 国土をまもり、風雨をしたがへ、五こく(五穀)をさかやして万民をたすけおはします。 御本地をたずぬれは、しやかむにせそん(釈迦牟尼世尊)のをうげ(応化)なり。 ぐせい(弘誓)のうみ(海)ふかう(深う)して、あまねくしゆじゅやう(衆生)をさいど(済度)し給へり。 ちはやふる(千早振る)神代のむかし日向の国にあまくだらせ(天下らせ)給て、とし(年)久しうぞすみ(住み)給ひける。 それよりやまと(大和)の国かづらきのみね(葛城の峰)にとびうつりおはします。 もとよりこの山には。かものたけずみのみこと(賀茂建角身命)と申御神すみ給ひしが、この山をゆずりて、たけずみのかみはやましろ(山城)の国にいたりて、をたぎのこほり(愛宕の郡)、をかだむら(岡田村)にすみ給ひける。

「神道集」巻第三

鹿嶋大明神事

賀茂明神者本躰観世音、 常在補陀落、 為度衆生故、 示現大明神云々

「塩尻」巻之七十六

○或問、近世民間六十六部とて回国す、如何なる寺社をか順礼するにや。 予曰、是近き比の野俗なれば、参詣の所もさだまらず、六十六ヶ所の寺社に、一部法花経を奉納し奉る。 其次は宝永四年東武旭誉が板行せし一幅に見へたり。
下野滝尾山(千手)  上野一宮(弥陀)  武蔵六所明神  相州八幡(釈迦)  豆州三島(釈迦)  甲州七覚山(同上)  駿州富士(阿弥陀)  遠州国分寺(釈迦)  三州鳳来寺(薬師)  尾州一宮(大日)  濃州一宮(薬師)  江州多賀(弥陀)  伊勢円寿寺(不動)  勢州朝熊岳(福方)  志州常安寺(正観音)  紀州熊野本宮(弥陀)  泉州松尾寺(千手)  勢州上太手(正観音)  和州長谷寺(十一面)  城州加茂社(正観音)  丹波穴太寺(十一面)  摂州天王寺(正観音)  阿波太亀寺(虚空蔵)  土佐五台寺(同上)  伊予一宮(正観音)  讃州白峯(千手)  淡路千光寺  播州書写山(如意輪)  作州一宮(釈迦)  備州[前カ]吉備津宮(弥陀)  備州[中カ]同上(同上)  浄土寺(正観音)  芸州厳島(弁才天)  防州新寺(正観音)  長州一宮(同上)  筑州宰府天神  筑後高良玉垂(釈迦)  肥州千栗(弥陀)  肥後阿蘇宮(十一面)  薩摩新田(弥陀)  大隅八幡(同上)  日向法花嶽(釈迦)  豊後由原(弥陀)  豊前宇佐(同上)  石見八幡(同上)  雲州大社(釈迦)  伯州大仙寺(地蔵)  隠岐託日(釈迦)  因州一宮(同上)  但州養父(文殊)  丹波成相(千手)  若州一宮(釈迦)  越前平泉寺(釈迦)  加州白山(弥陀)  能登石動山(虚空蔵)  越中立山(弥陀)  飛州国分寺(釈迦)  信州上諏訪(文殊)  越後蔵王権現(釈迦)  佐渡小比叡山(正観音)  出羽湯殿山  奥州塩竈(釈迦)  常州鹿島社(同上)  下総香取社(十一面)  上総一宮  阿波清澄寺(虚空蔵)
右の内にても亦霊なる所を順礼するもあり。 山城にて八幡、清水、大和にて東大寺、興福寺、法隆寺にて納経す、尾州にて熱田国府宮寺定たるもあり、国々にて其志す寺社に納め侍るとぞ。

「仏像図彙」

三十番神

賀茂大明神(十二日)

城州愛宕郡
本地正観音
別雷命
欽明天皇の御宇始て上下の神を祭る
[図]

太田直之「中世における神仏関係の一形態 —賀茂別雷神社の御読経所供僧について—」

賀茂社における神仏関係の概観

神宮寺

 この神宮寺の創建年代については、神亀年中(724-9)に神主が神の示現を受けて天皇家に奏聞した結果、神宮寺の塔と観音堂が建立されたといい、或いは弘仁三年(812)嵯峨天皇の勅願による建立と伝えられるが、史料上その活動が明確になり始めるのは十一世紀以降である。
[中略]
 康治二年(1143)には先年の炎上の後に再建供養、承安年中(1171-5)には鐘楼が建立され、南北朝期の神主信久の時には神宮寺塔の供養が盛大に行われている。 また応安六年(1373)には神宮寺の観音堂、鐘楼、一切経蔵が炎上し、本尊の十一面観音も焼失するが、再建は順調に進んだようで応永二年(1395)には経蔵の立柱・上棟が行われた。
[中略]
 このように、神宮寺は中世を通じて存在し続けたが、賀茂社との関係で注意すべきなのは、神宮寺が賀茂社の主祭神である賀茂大明神(賀茂別雷神)ではなく、地主神で境内摂社である片岡社(片山御子神社)の神宮寺であるとされる点である。 寛永四年(1627)に正祢宜森用久の記した「賀茂社神殿舎屋堂塔以下目録」(以下「寛永目録」とする)には神宮寺の説明として「当社地主の神宮寺也」とあり、延宝五年(1677)に賀茂社供僧より京都町奉行所へ提出された書上にも「当社片岡大明神之御本地堂」であることが述べられている。 こうした考えが中世にも遡るであろうことは、「賀茂有職目録」において、神宮寺の記載が片岡社の割注として記述されていることや、「賀茂別雷神社絵図」に神宮寺の鎮守として片岡社が描かれていることなどにより推察することができる。
 むしろ中世において賀茂大明神を祀るための寺院として中核的な機能を果たしていたのは、次節で述べる御読経所とその付属施設である小経所であった。

御読経所・小経所

 では、御読経所は賀茂大明神とどのような関係にあると考えられていたのだろうか。 これについては、まずは、中世の神仏習合を代表する思想である本地垂迹の関係から考えてみると、賀茂社の本地仏は釈迦如来か聖観音とされているが、御読経所の本尊は普賢菩薩、小経所の本尊は愛染明王であり、本地垂迹の関係から言えば両者は直接的な関係を有していない。 ただし、御読経所には普賢に加えて「小壇」に観音が祀られていた。
 御読経所の本尊が普賢菩薩であるのは、同所で最も重視された年中行事である法華三十講との関わりによるものと考えられる。 普賢菩薩は十羅刹女と共に法華行者を守護するものとされ、「当寺記録」によれば、
被奉始御不断経事、後冷泉院御宇永承年中ニ御奉納也、普賢十羅刹女絵像、 其後崇徳院是ヲ木像ニ被成、彼記録ニ云、大治二年依本尊絵像破損、新造立木像安置之、 御願意趣在願文、為後代奉納之木像普賢壱尺六寸十羅刹女八寸、法華経壱部開結、般若心経花厳経四十巻、大治二年二月十一日奉納供養畢、
とあり、永承年中(1046-52)に絵像が奉納され、ついで大治二年(1127)には絵像の破損によって木像が新造され、同時に法華経一部と開結二経、般若心経と華厳経が奉納されたと伝える。
 また小経所の本尊である愛染明王は、金剛薩埵の化身とされ、普賢菩薩は金剛薩埵と同体と考えられており、恐らくは小経所の愛染明王は御読経所の本尊である普賢菩薩との関連で安置されたものと想像できよう。
 このように、御読経所・小経所の本尊は、元々は賀茂大明神の本地とは無関係に選定されたものであった。 このままでは、一般的な本地垂迹理解では御読経所と賀茂大明神とは関係を有していないように見受けられるが、この点について、「当寺記録」では、中国天台中興の祖である湛然の「妙楽大師釈」を引用しつつ、釈迦と阿弥陀と観音と普賢が同体であるという説を展開し、本地仏と御読経所本尊との一体化が図られている。
 また、中世末から近世の賀茂社の神仏関係に言及した史料では、しばしば御読経所と小経所が大明神の影向する場であると語られている。 例えば、御読経所の施設には「本堂ノ上間一間御簾ノ所、常ニハ影向間ト云」とされる大明神を迎えるための「影向間」が設けられ、小経所に関しても「小経所者被表虚空ヲ、大神宮影向之為道場」(「留メ日記」)であるとか「当社本地じんぎたるにより、此所にてハ毎日あいせんくを社僧三人としておりおこなふ也、毎日やうかうのたうたるにより、別而子細有之」(「寛永目録」)などとされる。 さらに、大明神と御読経所、小経所の三者の関係については、
能化云、小経所ハ愛染、経所ハ普賢ニ而六時不断之行法也、 其子細者大明神之愛染之座ニスベリテ衆生ヲ御救被成也、 愛染之座ニ御スベリナケレハ衆生之穢濁之者ヲ導タスクルコトナラヌ也、 故ニ愛染供朝早天ニ行事也、 扨又神ヘ御カヘリ被成候ハ、普賢ノ座カラナラテハナラヌ也、 故ニ何時御カヘリ可被成事不知故二六時不断之勤行也ト被申候由也
とあり、「能化」=僧侶(御読経所供僧であろう)の間では、賀茂大明神は衆生済度のために「愛染之座」を通じて垂迹し、「普賢ノ座」より神に戻るというよ説も展開されていた。 教説の面からも御読経所こそが賀茂社における仏教関連施設の中核に位置付けられていたことが窺えるであろう。