賀茂神社 石川県かほく市横山 式内社(加賀国加賀郡 賀茂神社)
旧・県社
現在の祭神 賀茂別雷神
[配祀] 貴布禰神
[合祀] 天照大神
本地 釈迦如来

「加賀諸神社縁起」下

同[横山]賀茂神社縁起

当神社加賀国金津庄賀茂大明神の開闢を尋るに、人皇四十六代孝謙天皇の御宇天平勝宝五年加賀郡英太郷加茂邑に影向垂跡し給ふ、是を賀茂の本宮といへり、 其遺蹟は本宮の旧跡なりとて今に尚百歩許の地に古木三株生ひたり、 此側なる山陰に不思議なる布瀑あり、桂の水と呼へり、此滝水にて能く病難の人を救へり、 人皇五十一代平城天皇の御宇大同元年に賀茂大明神加賀郡英太郷加茂邑の地より、同郡金津の庄鉢伏邑へ遷坐あり、是をは閣地の宮といふ、 其遺蹟を今に大同かくちと呼へり、大同元年に遷坐ありし宮跡なる故なり、 然るに翌二年に是より北の方に当りて霊地あり、爰に遷し奉れとの神託あり、 依て其地を卜しけれは、同郡同庄横山駅今の社地なり、 故に託宣にまかせ神殿を造営して神霊を遷坐なし奉りける、 霊験日に増し厳にして神異のこととも国司より奏上せしかは、遂に官社に列せられたり、是延喜式神名帳に載られし加賀郡賀茂神社なりき、 往古は神殿悉く御造営有て、神田も三百六十町寄られ、摂社・別社・末社等夥多ありて、別当一院、塔頭十二坊、神官両家ありて繁昌せしかと、長享二年守護職富樫介政親滅亡せられしより本願寺一揆頭次第隆んに成、国中の社寺領を押領しぬ、 故に当社の賀茂領も悉く押領せられ、為に蔑如に成行て古式の神事祭典も悉く廃絶し、神官・社僧漸く奉仕せし処、天正十二年越中国の領主佐々木内蔵助成政謀反して前田家と矛盾に成、越中・能登両国の要害なる末森の城をは取巻たり、 此時前田家の後援に打越越中へ引取際、横山の古駅を放火しける処、当社の神殿・坊舍等悉く烏有と成、 神官・社僧狼狽離散すといへとも、神体霊像をは社頭の東南の方なる洞穴へ遷し隠し奉りける、 此の洞は縦五尺、横一丈許、深四尺許にて、神明の洞と呼へり、 大同二年に鎮坐し給ふより今茲天正十二年に至り凡そ八百余年にて兵火の為めに悉く廃絶す、 歎ひ哉、諸神殿・本地堂・宝塔・鐘楼・馬場等の廃跡今僅に礎を残せるのみ、 然る処、世治り天下泰平に属し、金津庄の里民神殿廃絶を歎き、社地に蔓延たる荊蕀の葎を苅り取て正殿の遺蹟を捜索し、神霊の洞穴に幽栖し給ふ、 恐縮して社祠造営の事を評議して、仮に宮柱を建て社殿を再興し、則神体を如元遷坐なし奉りたり、 抑当社は金津庄十九ヶ村の惣社なりしか、庄内後に開墾して高松新村・鉢伏新村の二邑を建たり、金は金津二十一ヶ村といへり、 此二十一ヶ村の村々に祭れる諸神社は皆当神社の末社なり、 凡当社横山賀茂大明神別雷大神の本地は釈迦にして、神明洞は幽栖の神所なり、 摂社は谷村の亀田ノ宮、上田名村の宝ノ宮・藤ノ宮・大日堂、笠嶋村の上堂ノ宮・市姫ノ宮、余地村の八幡宮・糺ノ宮、若緑村の八幡宮、高松新村の江文大明神・弁才天、初は長柄野と云、加賀・能登の堺なり、内高松村の八幡宮、高松村の額大明神、 是より已下七ヶ村は浜方なり、木津の神明宮・大日堂、松浜村の住吉明神、遠塚村の住吉明神、北村の稲荷明神、外日角村の住吉明神、内日角村の八幡宮、森村の八幡宮、鉢伏村の閣地ノ宮、鉢伏新村の白山社、宇気村の白山社、以上二十四社なり