金田神社 神奈川県厚木市金田 旧・村社
現在の祭神 豊玉姫命
本地 薬師如来

「大中郡金田村船来田大明神略縁記」

抑、人王八十六代四條院之御宇仁治元年、鎌倉将軍正三位中納言源頼経公(関白藤原道家公四男)御治世、
[中略]
時之領主本間六郎左衛門尉重連者、天性聡明秀才にして未た志学年に充ると雖も、恭於上憐於下常に慮を懸、水之通路を求め、姓民使んと田地開発成さんと、茲于鎌倉幕下士に杉山将監弘政と称る者在り。 遍く国郡を廻て土地之好悪を弁別して水路之通塞を察し、当時謂つ可き天下股肱之臣と也。 幸に当村便水途無く恩露枯渇を憐愍し、壇を構て郊原之正中に於て恩水之便を弁ふ。 今に至平田中に壇有り。 郷俗は之を杉山水視之壇と謂ふ也。 亦壇一面藤生い茂を以て藤塚と謂ふ。 既に掘を鑿り溝を決り数日を歴る之頃、忽に異香薫発し大地震裂す。 弘政奇異之思を為し手に钁を把開発し、彼者を於鑿得り。 一尊の薬師瑠璃光如来小船に乗るを光明蛍徹し、弘政钁を捨て恭敬礼拝す。 姓民愕然んと恐敬讃嘆す。 弘政則右之趣村長使て領主へ訟之所、元来信心堅固之本間重連誠に帰依渇仰して喜悦斜ならず。 是れ偏に田水擁護救世大悲之垂化也。 当村鎮護の神と請し奉る。 世々尊崇し即ち安置し奉り、于此本と推し、薬師之尊像小船に乗し示現之縁を船来田大明神と号す者也。
[中略]
右之次第領主重連公聴に被達。 則ち執権泰時朝臣之下知に依て重連自ら奉行と為て、仁治二辛丑年二月上旬従り船来田大明神宮殿及諸堂造営相始、同三壬寅春、本社・拝殿・廊・中門・鐘楼・宝蔵・惣門・鳥居に至る迄悉く皆令出来。

「新編相模国風土記稿」巻之五十六
(村里部 愛甲郡巻之三)

金田村

船来田明神社

村の鎮守なり、 神号を或は船来とも書す、其唱は同じ、 祭神を知らず、 按ずるに【和名鈔】当郡の郷名に船田あり、当社など其遺名にや、 されど厚木村に同名の社あれば孰が其原社なるは知るべからず、 本地薬師を安ず、 例祭六月二十日、 杉山将監弘政と云者の勧請と云(事蹟年代詳ならず)
△末社 秋葉 稲荷 天満宮
△別当神禅寺 船来山と号す、本山修験(勢州山田世儀寺末)