金北山神社 新潟県佐渡市真光寺  
現在の祭神 大毘古命・軻遇突智命
本地 勝軍地蔵

鈴木昭英「佐渡の山岳信仰」

金北山信仰の歴史と特色

 金北山は単に北山ともいい、また古くは白山と称せられていたらしく、これをもって白山時代の鎮座神は白山権現であろうと推定する説もあるが、明らかでない。 今日祀られている金北山神社の祭神は、神仏融合時代は金北山大権現あるいは北山大権現と称されていた。 その本地を勝軍地蔵とし、垂迹神を軻遇突智命・大毘古命とする。 絶頂に奥社を祀り、佐和田町真光寺に里宮があり、江戸時代はこれを管理する別当の真光寺が山麓里宮の前にあった。 明治の神仏分離で真光寺住職は金北山神社の宮司に転じ、寺は廃せられて、今は昔の面影がわずかに知られるだけである。
 金北山大権現が山頂に鎮座された年代については、大宝元年とも、神亀元年ともいうが、大宝元年説は役行者を開基とする主張に付随して生まれたもので、修験道の影響がある。
[中略]
 先ず問題にすべきは、この山の祭神金北山大権現であろう。 金北山大権現の本地は勝軍地蔵菩薩、その垂迹神は軻遇突智命と言われる。 これらが金北山権現の本地仏・垂迹神として選択されたことは、この山の信仰と密接な関連があり、その後の信仰にも大きな影響力を持ったと思われる。 ことに本地を勝軍地蔵としたことは、この山の信仰の歴史を特色づけている。 その勝軍地蔵の尊容は、甲冑を着し、手に利剣を捧げ、鞍馬に跨る地蔵として描かれる。 これは延享元年(1744)に著された『佐渡名勝志』にあるから、古くからこの姿が用いられてきたのであろう。 江戸末期の真光寺賢盛時代に鋳造されて、今は真光寺の里宮の拝殿に安置されている丈2メートル余の唐金の勝軍地蔵もこれと同じい。 もと山頂社殿内に納めてあったが、のち落雷に遭って焼けて壊れ、今は里宮の本殿にある鉄製の小像もほぼこれと似ているが、右手に奉持する持物が利剣でなくして持蓮花である点が相違する。
 山頂の社殿の地下に御神体が埋めてある。 以前は地下八尺のところにあった。 金光昇宮司の父が社殿を建て替えたとき、そこを掘ってみると、馬に跨った姿の御神体があった。 それを今度は新しく建てた社殿の地下六尺に埋めたという。 『附註佐渡名勝志』の註記者橘法老は、神体が社殿の地下七尺に埋蔵してあることを紹介し、それについて、旧祭神かまた地鎮祭の霊器か、と疑問を投げかけているが、これが勝軍地蔵の尊像であったことは間違いないであろう。
[中略]
 越後の上杉景勝や直江山城守が信仰し、江戸幕府がこれを重視したのも、武神としての勝軍地蔵の神徳を信頼し、これを崇敬したためであろう。 金北山大権現の垂迹神は昔から火の神軻遇突智命とされてきたが、明治になって大毘古命を合祀した。 神仏分離し、仏像を廃したための措置である。 大毘古命は孝元天皇第一皇子だが、四道将軍の一人として北陸に派遣され、そこを征服した人である。 これを祭神に加えることは、やはり武神的信仰によるためであり、お札などに描かれる姿は、勝軍地蔵と比べると面相が異なるほかは全く同じい。