唐津神社 佐賀県唐津市南城内 旧・県社
現在の祭神 [一ノ宮] 底筒男命・中筒男命・表筒男命
[二ノ宮] 神田五郎宗次
[配祀] 罔象女神
本地
一宮十一面観音
二宮弥勒菩薩

「松浦拾風土記」巻一

唐津大明神[LINK]

肥之前州松浦郡、当社大明神、神田五郎宗次以夢想、往来于海辺。 一日有一箇宝筐而浮海上、光明照曜、遍満十方。 宗次半驚怪之、半尊崇之。 忝問。 孝謙天皇下詔命、号唐津大明神、于時天平勝宝七年九月二十九日也。 故老所伝、一宮観世音化現、二宮慈氏尊降下也。

「日本歴史地名体系42 佐賀県の地名」

唐津神社

 唐津市街の中心、大手口から北へ約200メートルの旧唐津城内三の丸にある。 一の宮に表筒男命・中筒男命・底筒男命の住吉三神、二の宮に神田五郎宗次(当地方の豪族)を祀る。 旧県社。
 創建については伝承が幾つかある。 神社誌要は神功皇后が朝鮮より帰国後、鏡を捧げて住吉神を祀ったがその後衰え、孝謙天皇の時代に神田宗次が霊夢により海上に浮かぶ宝筐から鏡を得てこれを神功皇后の捧げた鏡として奏上、天平勝宝七年(755)九月二九日に唐津大明神の神号を賜った。 文治二年(1186)神田宗次を二の宮として祀ったという。 「松浦古事記」もほぼ同様だが、宗次が宝筐を得て神社に納めた日を九月二九日とし、同じ頃、都で三位蔵人豊胤は観音が宗次に抱かれて西海に赴く夢をみ、のち二人は会ってその不思議を奏上、神号を受けたという。 「松浦拾風土記」は「故老の所伝、一宮は観世音の化現、二宮は慈氏尊の降下なり」といい、「松浦昔鑑」は「物川蔵人・神田五郎広之両人之霊を祝ふ杜也」という。 「松浦記集成」には「宮の記に曰く、一宮、磐土命・赤土命・底土命・大直日神・大綾日神・海原神。二宮、八十任日神・神直日神・大直日神・底津少童神・中津少童神・表津少童・底筒男神・中筒男神・表筒男神。相殿、水神罔象神。御領主御合力米九石」とあり、神功皇后については「別記曰」、宗次夢想縁起については「一説曰」と触れる。
[中略]
また唐津市西寺町大聖院の十一面観音の胎名には 「奉造立観世音形像一体、肥前国松浦西郷唐津社本地堂本尊事、為金輪聖王王徳陽万民豊楽□五穀成就当庄地頭社務源奥源祝沙弥聖心源授源□源弘源栄家内子孫繁昌。 建徳二年八月四日 大領主 幸阿」 とあり、上松浦の松浦党一族の崇敬を受けたことを物語る。