「紀伊続風土記」巻之二十(名草郡第十五)
大野荘下 中村
○春日大明神社 境内(東西五町十間南北四十八間) 禁殺生
本社(三扉) 瑞籬 庁 大鳥居(山上にあり)
小鳥居(山下にあり) 鐘楼
本地堂(本尊釈迦)
末社 歳越明神若宮合殿
本国神名帳正一位春日明神
村の北にあり
大野ノ荘中村幡川井田鳥居山田神田名高日方八箇村の氏神なり
境内森山を春日山といふ又三上山といふ中山なり
井田村の粟田明神社に対し当社を上ノ宮といひ栗田明神を下ノ宮といふ
上ノ宮は幡川村禅林寺を奥ノ院とし下ノ宮は鳥居村観音寺を奥ノ院とす
二寺は皆為光上人の開基にして聖武帝の勅願所といひ伝へたれは当社の勧請此より先なる事知るへし
明暦記に当社及粟田両社の古き縁起ノ絵巻ありしに往年日方乱の時高野山南谷花王院へ預け高野火災の時皆焼失すとあり
因て両社の来由詳にしかたし
南紀神社録ニ古事記姓氏録等によりて曰
当社は祀神大春日姓之祖国忍人命なり
今誤りて南都春日と同神と称するもの非なり
当社は孝昭天皇の皇子天足彦国忍ノ命にして大春日朝臣等の祭る所の祖廟なり
栗田ノ社は国忍人の三世の孫彦国葺ノ命にして是栗田姓の人此地に居る因て其祖を祀りて大春日社をもて上の宮と称し粟田ノ神祠を以て下の宮と称するなりといへり
今これを以て正説とす
明暦記に社殿屡兵乱に焼亡し天正中南興せしに豊臣家の時又破損す
元和の後稍々古に復す
旧は神領九町七段あり(内六町四段は奥ノ院禅林寺薬師ノ領 三町三段は当社ノ領となり)
豊臣家検地のとき皆没収せらるとあり
祭礼六月八日九月十一日なり
相伝へて本社三扉中殿空位なりといへり
元弘年間に大塔宮護良親王熊野潜行の時此春日山に暫隠れまし
当荘十番頭の者を頼み給ひて年を越おはしましゝかは此神殿を作りて御座所とす
此に因て今に中殿は設たるまゝにて祀神なしとそ
然れは本社一座にして外一座は即粟田明神なるか
又末社に年越明神あり
祭神詳ならす
明暦記に歳越明神の奥ノ院中村菩提寺とあり(菩提寺の事は山田村の條にあり)
されは古は亦本社に配して著かりし社と見えたり
意ふに是はた後人大塔ノ宮を祀りしならん歟
こゝに年越るまておはしゝかはしか称えたるなるへし
○本社の西名高領に井引といふ処あり
又井の松原といふ古の御旅所にて馬場あり
其境内東西十五間南北四町十問
往古六月八日九月十一日祭礼神輿渡御ありといふ
然るに文録年中日方名高より新田を開き今はたゝ小き桜一本あり
井引は国造家ノ記に藺引ノ森とある地なり
猶此森のことは名高浦の條に出たり
穀屋 金剛院(三上山春日寺)
明神の境内にあり
真言宗古義勧修寺未なり
「紀伊国名所図会」巻之五
春日神社
三上の山にあり。
大野郷の生土神にして、例祭九月十一日
祀神国忍人命(『本国神名帳』に云く、正一位春日御神)
本地堂 本尊釈迦 坐像にして、作しらず 別当、衣笠山金剛院神宮寺。
大師堂 弘法大師像、作つまびらかならず。当国において四国八十八ヶ所を移して順拝の第六十四番に配す。
御詠歌に「みかみ山のおりてみればおのづからむねのこほりもとくるはるのひ」
そもそも当社の勧請は、年暦久遠にして、その濫觴さだかならず。
中古大野城敗落の火の余煙、当社に罹つて荒蕪し、社頭も神さび、瑞籬もなだらかなりしを、郷老集会し、ふたたび社壇をいとなみけりとぞ。
当御神を今あやまつて、南都春日大神と称するは非なり。
この御神は孝昭天皇の皇子天足彦国押人命と云々。
大春日朝臣祭る所の祖廟なり。
いにしへ大春日姓・粟田姓の人この地に住して、その祖をまつりて大春日の社を上宮と称し、粟田の社をもつて下宮と称す。