気多大社 石川県羽咋市寺家町 式内社(能登国羽咋郡 気多神社〈名神大〉)
能登国一宮
旧・国幣大社
現在の祭神
気多大社大己貴命
摂社・白山神社菊理姫命
摂社・若宮神社事代主命
末社・楊田神社迦具土命(あるいは荒御魂神)
末社・太玉神社(旧・大講堂)太玉命
本地
気多大明神地蔵菩薩(勝軍地蔵)阿弥陀如来聖観音
白山権現十一面観音
若宮権現聖観音
楊田権現不動八童子
大講堂阿弥陀如来

「気多神社古縁起」

大日本国北陸道能州気多大神宮者、日域第三之社檀而、正一位勲一等無量百千万億阿僧祇劫、常住不滅之御神也、
一、先忝素盞烏尊御子大己貴尊也、 始者居住出雲国也、
一、人王八代孝元天皇御宇、北国越中之北嶋魔王化鳥而害国土之人民不少、 又到渡海之舟船亦為害止通路、 又其時節、鹿嶋路湖水之大蛇出現而害人不可勝計、国中人民及悩愁、地裡昆虫到苦患、 当此時大己貴尊引具三百余神末社之眷属而来降于当国、殺彼化鳥与大蛇、故国中之民唱大平、海上之船謂能登、依之越中之国分四郡号能登国、 爾已来此南陽浦垂跡、天下国家君民之守護神也、
一、人王十代崇神天皇御宇御建立之社而、勅使下降云々、
一、人王十四代仲哀天皇之御宇、新羅・百済・高麗等之凶賊等取乗数万艘而攻向日域、 天皇則聚軍兵、神功皇后為軍之大将、雖然非有神威者何決勝乎、是故日本国中大小神祇捧祈誓、 就中頼当社故、気多太神宮引率九万八千之軍神而戦、已抛干珠満珠於海上、忽山変而成海、海変而成山、飛行虚空、神力自在而攻戦、天地之雷神十方震動、海嶋之龍王諸処憤怒、是故三韓即時滅亡畢、我朝安全国土泰平也、 因当社之威気多而、神功皇后詔、祝気多不思議智満大菩薩也云々、
[中略]
一、元正天皇之御宇、泰澄大師伊勢内外之御神躰可奉拝誓而、一夜川越之堂面籠、 夢想之御詠歌、恋シクハ尋テモ見ヨ能登ル一ノ宮ノ奥ノ社エト、 従此泰澄大師当社参詣在而、観貞和尚号、行法矣、 于時御躰現山伏、与泰澄通言語、是故於葛城・大峯者、当社之山伏者地蔵山之左座而行法云々、 自爾以来、当宮毎歳三月四日講堂御神幸成而、山伏之出成行、 泰澄即修造神社仏閣而号亀鶴蓬莱華蔵寺、置三十六人之衆徒而神前之儀式到開帳、付与弟子之最仏行者、 泰澄已去而往新宮与石動山、故崇泰澄而為当社之中興開基也、 実当社大明神者、勝軍地蔵薩埵之垂跡而、天長地久・国泰民安之御守護神也、 総而当宮奥之両社者、素盞烏尊与稲田姫命也、 本社者勝軍地蔵菩薩大己貴尊也、 左右者白山妙理権現久々利姫之命本地十一面観音与若宮大権現本地正観音也、 次楊田権現不動八童子、 次大講堂本尊阿弥陀如来也、 先以謂之五社矣、 此外五王前神・弓矢舟明神、 塔之本尊釈迦・弥勒、 護摩堂之本尊五大明王、 毘沙門・祇園・十王・弁才・天満宮、 末社四十二社也、
[中略]
一、当社御神於天竺者、金毘羅神現守護釈尊之仏法、 払除魔軍之邪気、是故在霊山会上祇園寺、祝地主権現也、 此則伝教大師帰朝記依有之、 当社御神四・七月講堂有御幸而仏生式御聴聞有之云々

「神道集」巻第四

越後国矢射子大明神事

また北陸道には、道前・道後とて二つの社有り。 兄弟にて御在す。
[中略]
道後とは、気多大菩薩なり。 能登国に立ちたまへり。 御本地は地蔵菩薩なり。 この仏はこれ罪人に交じりて、抜苦の偈を教へたまふ。

「加越能寺社由来」

寺社由来[LINK]

 長福院(真言)
一、能州一宮気多太神宮者、国造大己貴尊、本地勝軍地蔵薩埵満珠鎮納之社、人皇十代崇神天皇之御宇、社頭草創、至当歳一千七百余年ニ罷成候。 往古者度々勅使下際、綸旨被成候由申伝候。 近代者永禄年中ニ畠山義綱公社頭再興之節、御遷宮之綸旨被為下候。
一、寺院之儀、人皇四十四代元正天皇之御宇、養老年中泰澄大師之開基、至当歳九百六十余年罷成候。 支于難知候。

「気多社祭儀録」

南陽浦八十隅気多大明神大己貴命本地勝軍地蔵菩薩也
一説曰天活玉命本地阿弥陀如来也
気多不思議智満大菩薩諡号也
御位貞観元年正月廿七日従一位
崇神天皇御宇勧請云云

「仏像図彙」

三十番神

気多大明神(五日)

能登国羽咋郡
本地弥陀 又異説に正観音
[図]

「中世諸国一宮制の基礎的研究」

能登国

Ⅰ 一宮

1 気多神社。 『万葉集』には気多神宮、『日本後紀』『延喜式』に気多神社、『続日本後紀』では気多太神宮とあり、延久4年(1072)の『気多宮歌合』もある。 平安末期から江戸期には気多社とみえ、永禄5年(1562)以降には、再び気多太神宮とも称した。 明治4年に気多神社と改称。 大正4年、国幣大社に列したことから、気多大社と通称されている。
5 享禄4年(1531)書写の奥書をもつ『気多社儀録』に気多大明神は大己貴命、本地勝軍地蔵菩薩とあり、一説には天活玉命、本地阿弥陀如来ともいうとある。 また気多不思議智満大菩薩の諡号を授けられたとする。 延久5年(1073)の「三十番神勧請記」(門葉記)に気多大明神がみえ、建治元年(1275)の高爪六所明神懸仏のうちにも気多大明神と裏書された一面があって、表に僧形八幡神が描かれている。 ついで文明3年(1471)の『弥彦神社古縁起』には、気多の本地を釈迦とするが、天正5年(1577)10月、一宮惣中が能登を占領する越後上杉氏に提出した「気多社書上」(気多大宮司家文書)には、当社の創始は大穴持(己貴)命の影向によるとし、本地勝軍地蔵の垂迹を述べている。 この頃当社奥宮が鎮座する社叢は、地蔵山と呼ばれていた。
6 嘉吉3年(1433)京都宝鏡寺(臨済宗尼寺)の妙喜庵が、当社の社務職の知行を室町幕府から安堵され、当時守護請となっていた。 大永7年(1527)以降になると、禁裏料所としてみえ、引き続き能登守護畠山氏が、年額3000疋で代官を請け負っている(お湯殿の上の日記)。 気多神宮寺は既に平安前期から知られるが、のち戦国期においては「一宮大寺」と通称され、薬師院・地蔵院・長福坊・正覚坊・東林坊・玉蔵坊など20余の社僧坊が確認できる。
7 正長元年(1428)の「気多社神宮供僧訴状案」に、当社は日城第3の霊場にして、崇神天皇の御宇に勧請され、神功皇后の新羅征伐の折には干満両珠を放ってこれを助勢し、よって正1位太政大臣勲一等にして気多不思議智満大菩薩の号を賜ったとする縁起的内容を載せている。 この由緒は多少旨趣を変えて天正5年(1577)の「気多社書上」にも承け継がれ、ここでは神功皇后ではなく気多の神が9万8000の軍神の総帥として、新羅・百済を征伐し、やがて日向国に赴いてこの国土を天照大神に譲り、改めて北陸道の鎮守に定められたとみえている。
[中略]
『気多社古縁起』は、孝元天皇の御宇、出雲国より300余神の眷属を率いて来臨した大己貴尊が、烏に化した越中北島の魔王と鹿島路湖水(邑知潟)の大蛇を退治し、当地に垂迹して守護神と仰がれるようになったとあり、ここでは白山を開いた泰澄を当社中興の開基と説いており、『気多神社縁起』も、ほぼ同様な趣旨となっている。