貴船神社 | 京都府京都市左京区鞍馬貴船町 | 式内社(山城国愛宕郡 貴布祢神社〈名神大 月次新嘗〉)。 二十二社 旧・官幣中社 |
---|
現在の祭神 |
|
---|
本地 |
|
---|
伊勢(聖観音)。
八幡(釈迦)。
賀茂(御祖社釈迦)。
松尾(釈迦)。
平野(一殿大日。二殿聖観音。三殿地蔵。四殿不動)。
稲荷(下社大宮如意輪。命婦文殊。田中不動。中社千手。上社十一面)。
春日(一殿不空羂索観音。二殿薬師。三殿地蔵。四殿十一面)。
中七社。
大原野(同春日)。
大神(大日。聖観音)。
石上(十一面。文殊。不動)。
大和(一宮弥勒。二宮薬師。三宮聖観音)。
広瀬(大宮聖観音)。
龍田(釈迦三尊)。
住吉(一神薬師。二神阿弥陀。三神大日。四神聖観音)。
下八社。
日吉(大宮釈迦。二宮薬師)。
梅宮(一殿如意輪。二殿聖観音。三殿不空羂索。四殿信相)。
吉田(同春日)。
広田(一殿聖観音。二殿阿弥陀。三殿高貴徳王大菩薩。四殿阿弥陀。五殿薬師)。
祇園(天王薬師。波利女十一面。八大王子。八字文殊)。
北野(十一面)。
丹生(薬師)。
貴布禰(不動)。
已上二十二社。
前伯三位仰吉田宮神主注之。
貴布祢
山城国愛宕郡貴布祢神社
水神 弘仁九年五月預大社宣
本地 不動
貴布禰(本地不動)。
貴舩大明神(九日)
城州愛宕郡
本地不動
男女夫婦の中を守らせ玉ふ御神なり
[図]
はじめに
洛北の貴船神社には、『黄船社秘書』という和綴の小冊子が残されている。 表紙に「不許他見」と記されているが、式内社調査のため昭和五十二年三月に訪れたさい、宮司の山上英夫氏の好意により披見することができた。 この書物の最後には、貴布祢社の旧社人舌氏の系図が載っている。 系図は百四代に当たるという舌宗富までで、宗富の父で百三代に当たるという舌宗源は宝暦四年(1754)八月十五日卒と記されている。 宗富は名前だけで没年の記載がない。 これによって考えると、『黄船社秘書』は宗富によって宝暦四年以降に著されたもののようである。 内容は貴布祢社の縁起を記した「貴布祢社人舌氏伝来之秘書」にはじまり、「貴船大明神御位奉授ノ秘記」、「気生根大明神奥ノ社ノ考」、「貴船大明神中ノ社ノ考」、「木船大明神端ノ社ノ考」、「書籍抜要考」、「書籍伝来考証」、「貴船ニツケ和歌有」、「貴布祢社人舌氏秘記御初尾頂戴ノ覚」、「諸大名様方覚」、「是ヨリ御上使ヱ御礼上ル覚」、「貴布祢雙紙」とつづき、「舌氏左衛門守歴代系図」で終わっている。
[中略]貴布祢雙紙
『黄船社秘書』の中で最も興味を引くのは、最後の部分に記されている「貴布祢雙紙」である。 これは貴布祢社の祭神貴布祢大明神の縁起ではなく、貴布祢社の社人舌氏の縁起というべきものである。 その全文を示すと次のとおりである。貴布祢雙紙
当社大明神天上ヨリ降臨玉フ時、仏国童子ト云フ者ヲツレクダリ玉フナリ、 此童子ニ事示テ曰、天上ノ事ハ一切事此界ニテ物談ハ無用也ト常ニ仰セラレシカドモ、此ノ童子甚タ多言ニシテ、動モシレバ天上ノ事ドモ語リケン、 去ルニヨリ大明神御立腹有リテ、童子ガ舌ヲ八裂ニ割剪玉イシカバ、其儘童子ハ芳野山ニ飛入リ五鬼ナド随ヱ居レリ、 有時童子貴布祢山ニ帰リ鏡岩ノウロ屋ニ屈ミ居ケリ、 去ルヨリ鏡岩ヲ屈ミ岩トモ書也、 即チ大明神不便ニ思召シ、三年目ニメシカヱシ使ハシメトナシ玉フ、 則チ童子ニ一子出生シ其名ヲ僧国童子ト名ツケタリ、 有時仏国童子、大明神ノ御弓、鉄ニテ打タル面二寸三分宛ノ御弓ヲ取出シ、二張マテ引折ルナリ、 余リ事悪シキニヨリ大明神手ヲ鉄ノ釘綴 七筋ヲ以テクゝリ玉ヒシカド、少シモヒルマズ七筋ノ鉄ノ縄ヲムズト引チキリシトナリ、 去ルニヨリテ大明神ハマタ二間四面ノ大石ヲ膂ニ掛テ置キ玉フ、 童子此ヲモ手ニテハ子カヱシ苦トモセザリシニヨリ、大明神色々ト傷メサセ玉フナリ、 童子食物ハ一日三升三合宛タベシト也、 童子ノ寿百三十歳ノ時、俄ニ雷電シ、落タル雷公ト一度ニ天上致サレシ也、 扨テ一子僧国童子者丹生ノ大明神ニ事、其後吉野山ニ踏入リ五鬼ヲ始メ小鬼トモ残ラズ随エ来テ貴布祢大明神ニ事シ也、 有時僧国童子五鬼カ首ヲ引ヌキ殺シケレバ、大明神不便ニ思召シ即チ神トナシ祭リ玉フト、 僧国童子ノ寿一百二歳ニシテ落命也、 僧国ノ子カ法国ト名ク、 法国童子ノ子ヲ安国童子ト名ク、 三代四代目マテハ皆ヲソルベキ鬼ノ形ニ似タリ、五代目ヨリ日ノ本ノ人ニ同ジ、子孫代々繁昌シテ大明神ニ事奉ル也。 先祖ヲワスレヌ為ニ名字ヲ舌ト名ノリ家ノ紋ニハ菱ノ中ニ八ノ字也、 舌ハ先祖仏国童子ノ舌ヲ大明神ノ割玉フヲ忘レサルノ意、菱ハ即チ口ナリ、八ハ八ツ裂ヲ忘レサルノ意也、 其字義ハ、舌ヨク物ヲ明シ理ヲ通シ古ノ道ヲ今日ニ伝フルノ本也、 ◇ハ是口也、 ○ハ混沌天地ノ形也、 □ニ角ヲ立テ◇ノ形ニ作ルハ天地四方ノ悪魔ヲ払フ也、 {◇に八}即天地ノ中ニ八有ルハ八刲位シ天地太平ノ意也、 大明神八裂ニナサレシモ、即チ七花八裂是レ万物散々タル形也、 又八ハ八大龍王也秘密々々、 此紋即大祈祷トナルト知ルヘシ、 三浦ノ大佐ガ煩ヲナスモ僧国童子ガワザ也、 九条ノ院ノ御悩モ同シトユヱリ、
[中略]貴布祢大明神の縁起
「貴布祢雙紙」には貴布祢大明神が天上より仏国童子を随えて降臨したと記されているが、それ以上の記述はない。 しかし、その降臨については、『黄船社秘書』の最初の貴布祢社の縁起を記した部分により詳しく記されている。 そこで、その部分を引くと、次のとおりである。日の本山代の国貴布祢大明神ハ伊弉諾尊のなしたまへる御神にて、天上より此所へ降臨たまひて、国家安穏の御神霊にて、其御名ハ高龗と申たてまつれり、 降臨たまふの年号日月あひしれず、 貴布祢御山の中に平と申所あり、此所ニ大磐石あり、此上に降臨たまふなり、 此磐石耀くこと照る鏡のことし、此故ニ平の磐石を鏡石と名つけ、鏡岩によりて御山を御鏡山と申せり、 此御神のつれくたりたまふ神を仏国童子と申せり、 後丑市(牛一とも)明神といわひ申て舌氏の祖神也、右で「降臨たまふの年号日月あひしれず」と記されているが、同じ『黄船社秘書』の「書籍伝来考証」のところには、当社丑ノ日ノ祭ハ、高龗昔丑ノ年ノ丑ノ月ノ丑ノ日ニ此所エ降臨玉也、 則丑市明神御使也、 四月朔日ハ古ニ降臨玉フ日也、 故ニ神幸祭礼ノ日ト極メテ祭申ス也、 常ニモ丑ノ日ハ格別ニ詣イタス也、とみえ、丑年の丑月の丑日の降臨であったとされている。
貴布祢大明神の鎮座については、右の降臨説話以外にも説があり、『黄船社秘書』の一番初の部分に次のように記されている。日の本山代の国貴布祢大明神ハ、葦原瑞穂国の御地主の神にして、神代の其むかし黄なる色の船にのりたまひ、天の御嶋の崎より海より海河より河にうつりて其源を探り原ねたまひて、此所ゑ到着して静まりたまふ御神にして、何れの代何れの年より到在といふ事をしらず、すなわち日の本葦原瑞穂の国ハ此御神の地にして国土安穏守護の御神霊なり、 一に闇龗と御名つけ尊崇たてまつれり、 船にての水手楫取ハすなハち楫取明神也、 此等の神をしたかゑ此所に到たまふなり、貴布祢大明神の鎮座については、以上のように二説あるのであるが、『黄船社秘書』は、貴布祢大明神、右の二社ましまして、一社ハ日の本地主の御神也、 一社ハ天上より降臨たまふ御神也、 何れも国家安全御宝利長久万民守護の御神霊なり、と別の神であるという立場をとっている。そうして、奥の社に祀られているのが地主神で闇龗神といい、端の社に祀られているのが降臨神で高龗神といい、両者は陰神と陽神の関係にあると説明している。
[中略]神仏習合
「貴布祢雙紙」の中で舌氏の祖が仏国童子→僧国童子→法国童子と称されているのは、仏教との習合を示すものである。 しかしここで特に注意されるのは、仏国童子等が貴布祢大明神に仕えていたという、神主仏従的立場に立っていることである。 しかも、物語における貴布祢大明神の仏国童子等に対する立場は、絶対的といってもよいほど強いものである。
[中略]
以上、「貴布祢雙紙」にみえる神主仏従的側面について述べてきたが、これと並行して、本地垂迹的な——仏本神従的な――考えも貴布祢社にはあった。 すなわち、『黄船社秘書』に、黄船ノ御神社奥ノ御前ノ御神躰ハ陰ノ御神ニテ其御名ハ闇龗ト申崇敬タテマツルナリ、 則チ水徳ノ御神ニマシマシテ日ノ本ノ御地主ナリ、 一ツニ船玉命トモ申タテマツルナリ、 御本地ハ地蔵大菩薩也、とみえているとおりである。 また、
黄船ノ御神社端ノ御社ノ御神躰ハ陽ノ御神ニテ其御名ハ即チ高龗ト申テ天上ヨリ降臨タマフ御神霊也、 弘仁九年五月奥ノ御前ノ御屋敷ヨリ今ノ所ヘ御遷宮也、 故ニ端ノ御宮ト申タテマツルナリ、 御本地ハ不動明王也、奥ノ宮ノ御本地仏ハ阿弥陀如来ト地蔵菩薩ト観音菩薩ト也、 中ノ宮ノ御本地仏ハ薬師如来ト文殊菩薩ト也、 端ノ宮ノ御本地仏ハ釈迦如来ト不動明王ト也、ともみえている。 その外に、奥深ノ社・吸葛社・私市社モ摂社ナリ、 末社ハ楫取明神・牛一明神等也、 其余ハ皆摂社也、 摂社末社ノ御神躰ノ事別記ニモ是有、御本地仏ノ事モ有也、とみえていて、摂社・末社にもそれぞれ本地仏の定められていたことが知られる。 たとえば、末社の丑市社については、牛一トモ、舌氏ノ元祖也、 本地観世音也、と記されており、牛一明神の本地仏は観世音菩薩であった。
貴船には、本地仏不動明王を安置した不動堂があり、また神宮寺もあった。 すなわち、『黄船社秘書』に、鈴鹿社ハ本社ヨリ三十二間、上谷ノ裏也、 (中略) 次ニ御本地不動堂有、 神宮寺本社ヨリ廿五間南ニ在、 一ヶ寺神宮寺ニ指添テ二ヶ寺也、とみえるとおりである。 不動堂には住僧が一人居り、そこで護摩執行と不動明王の儀式が行われていた。 『黄船社秘書』にはそのことが次のように記されている。当社御本地不動堂ニ於テ護摩執行有、 当所ノ宮僧六人、鞍馬寺ヨリ六人、不動堂ノ住僧都合十三人シテ、正月三ヶ日、同八日、同十四日、同晦日、右ノ通護摩執行有、 祈祷料ハ舌氏ヨリ持参也、 正月八日ノ行ヒノ御牛王ハ舌氏ヨリ惣中ヱクバル、賀茂八人ノ巫女達ヱモ舌氏ヨリツカハス也、 不動堂ニ於テハ毎月十六日ニ不動明王ノ儀式相行フ也、 其料ハ毎月十六日ニ舌氏ヨリ持参也、右で明らかなように、護摩執行および不動明王の儀式は、舌氏の負担で行われていた。
奥の社の地蔵大菩薩は、舌氏の牌所(菩提所)黄船山延命寺に安置されていた。 すなわち、『黄船社秘書』には次のようにみえている。鳥居ノ内ニ寺アリ、黄船山延命寺ト申ス、 舌氏ノ脾所也、 本尊地蔵大菩薩也、 御作ハ毘首羯磨天也、 彩色ハ定朝ノ作也、 二童子モ定朝ノ御作也、 元来ハ奥ノ御本地仏也、
三浦俊介「神話文学の展開 貴船神社研究序説」
貴船の神々と神話
貴船神社の降臨神話
【資料2】『秘書』所載B「貴布禰双紙」の降臨神話(梗概)
[中略]
- 大明神が天上から降臨した時、仏国童子を随伴した。 天上の事を他言するなと禁止したのに漏らしたので、大明神は立腹して、仏国童子の舌を八つ裂きにした。
- 童子は芳野山に逃げ落ち、五鬼などを従えていたが、やがて貴布禰山に帰り、鏡岩の空洞部に屈んで入った。 だから「鏡岩」を「屈み岩」とも書くのである。 大明神は三年目に許した。 その後、仏国童子には一子「僧国童子」が誕生した。
- ある時、仏国童子は大明神の弓を二張も折ったので、(大明神は)鎖や大石によって懲らしめようとしたが、なかなか叶わなかった。 仏国童子は130歳で雷神とともに昇天した。
- 仏国童子の一子「僧国童子」は丹生大明神に仕え、その後、吉野山で五鬼などを随え、貴布禰大明神に仕えた。
- ある時、僧国童子が五鬼の首を引き抜いて殺したので、大明神は五鬼を神として祭った。
- 僧国童子は102歳で落命した。
- 僧国の子は「法国」、法国童子の子は「安国童子」と名付けられた。 三代・四代目までは鬼の形に似ていたが、五代目からは日本人と同じ人間の形となった。 子孫代々まで繁昌して貴布禰大明神に仕えた。
- 大明神の戒めを破って罰を受けた先祖の「仏国童子」のことを忘れないように、彼らは名字を「舌」と名乗り、家紋に菱形の中に八の字を書くことにした。
【資料3】國學院大學蔵『木舩谷者所持記』の降臨神話の要点
- 「牛一社」の本地仏は大日如来である。
- 「牛一社」は舌氏の遠祖を祀っている。
- 大明神は牛鬼に乗ってこの山に降臨して鎮座した。 その因縁で今まで「丑日」が縁日である。
- 往古、大明神が「太古淳朴の道」を喪失するのを察して大和国に行き、牛鬼の舌を八つ裂きにした。
- 大明神が鎮座した時、大和国吉野郡から、今の舌氏の遠祖が出て来て、大明神に随伴した。 舌氏の遠祖は牛鬼だという。 あるいは、舌氏は鬼の子孫だという。
- 昔、「
陶若 大臣」が薨去なさった後、明神となってここに鎮座した。 「今奥社」の右畔の「奥深社」がそれである。- 大臣の鉄弓が舌氏の館に納めてあったが、舌左衛門佐の父祖があまりにも愚かだったため、それが家宝であることを知らず、それを飾り金具に変えてしまったという。 今となっては悔やんでもどうしようもないが、未来永劫、末代までの恥となり、世間の人たちの嘲弄を受けることとなった。 (証拠の弓はもう存在しないが)このような由緒があるので、舌氏は陶若大臣の末裔だというのである。
貴船の三尾
治承三年(1179)頃成立といわれる後白河法皇撰の歌謡集『梁塵秘抄』には京都の貴船神社の摂末社として「尾」を付けた神社名が三座記されている。 すなわち『梁塵秘抄』巻第二(252番歌)の四句神歌に「貴船の内外座は、山尾よ、川尾よ、奥深、吸葛、白石、白髭、白専女、黒尾の御前は、あはれ内外座や」と見える三座である。
[中略]
貴船神社の黒尾社の「尾」はおそらく黒い尾(をした狐)の意味であり、同奥宮境内の中で白狐を重視していた「白専女社」と好対照をなしている。
[中略]
残る「山尾」と「川尾(河尾)」は一対の神格である。 そのことは、鎌倉初期に作られたと思われる『丑日講式』において「山尾者、居上故示上求菩提之相、矜迦羅之垂跡也。河尾者、坐下故表下化衆生之願、則制多迦之権化也。」とあることから確かめられる。
貴船神社は鎌倉時代には神仏習合して、江戸時代まで本社境内に本地堂があった。 本社祭神の本地仏は不動である。 講式には山尾は矜迦羅の垂跡、河尾は制多迦の権化とある。 矜迦羅と制多迦はともに不動明王の脇立ちの童子である。 山と河、矜迦羅と制多迦が対概念であり、「上求菩提」と「下化衆生」、「垂跡」と「権化」も対句的に使用されている。 この両社が一対で配されていることは、山河両社が、不動を本地仏とする貴船神社本社に付属する末社であることを明示している。中世神話『貴船の本地』論
『貴船の本地』の読誦・信仰の功徳
さて、『貴船の本地』諸本の巻末部分を一覧して言えることは、 ①中将や姫君を長寿の末に神となった、 ②中将は「客人神」となった(慶応本)、 ③姫君・中将ともに恋に苦しんだ過去を持つことからこそ衆生を救うと誓っている、 ④貴船の神に祈ることで縁結びなどの願いが成就する、 ⑤『貴船の本地』というテクストを読み、節分や五節供などの年中行事を実行することで破邪避鬼がなされ、長寿や福徳を得ることができる、などと主張されているということである。
中でも、慶応本が諸本中で最も詳細に読誦や信心の功徳を説いており、呪術的な性格の強いテクストと言えよう。 ここで改めて、慶応本巻末の内容を整理しておくと、 ①姫君は120年(フォッグ本「83」)生きて、現人神となり、貴船の大明神となったが、その本地仏は弁才天であった、 ②中将は120年(丹縁本「180」・フォッグ本「106」)生きて「客人神」となった、 ③五節供を信じて実施する者は鬼の難を逃れ、長寿を保てる、 ④『貴船の本地』を読む者は所願成就する、 ⑤客人神・大明神を信ずれば、恋が成就する、の五点となる。貴船神社のスサノヲ祭祀の謎
室町時代における貴船神社の社殿について詳細に記すほとんど唯一の史料に『賀茂神社記』(賀茂増平)がある。 [中略] 以下に、貴船神社の社殿に関する情報の部分だけ掲げる。 不読箇所は□で表記した。
【資料3】宝徳三年写『賀茂神社記』貴布祢社付拝殿 経所 政殿 神宮寺 仮殿 鎰取 梅宮 白石 白鬚 山尾 河尾 惣社 今奥 任部 吸葛 黒尾 牛一 奥御前付拝殿 鈴□『賀茂神社記』記載の社名と、現在の社名や鎮座場所とを対照してみる。 同書は、 ①「端の本宮」境内に位置する、貴布祢社(現在の本社)と拝殿、経所(社務所)と政殿(斎館)、神宮寺(明治初年の廃仏毀釈で失われた)と仮殿(権殿)などを記し、 ②南方から順に、鎰取(現在の梶取社)、梅宮(現存)、白石(現存)、白鬚(現在は本社二の鳥居横に鎮座)と境外末社を列挙し、 ③「端の本宮」北方の末社の山尾(廃絶、貴船山上にあった)、河尾(現存)を指摘し、 ④「奥の本宮」境内に位置する、惣社(廃絶)、今奥(廃絶)、任部(廃絶)、吸葛(現存)、黒尾(本社境内に遷座後に廃絶)、牛一(現在は本社境内)、奥御前(奥宮本社)と拝殿 鈴□(鈴一社か)などを列挙している。
[中略]
【資料4】『秘書』所引「黄布祢社人舌氏伝来之秘書」二丁表(闇龗・高龗・玉依姫・神武天皇・産波瀲武鸕鶿羽葺不合尊・国常立尊・罔象女神の記述を略す)【資料4】『秘書』には、貴船神社には①闇龗、②高龗、③玉依姫、④神武天皇、⑤産波瀲武鸕鶿羽葺不合尊、⑥国常立尊、⑦罔象女神、⑧素戔嗚尊、⑨大己貴尊(以下「オオナムチ」と表記する)の九柱の祭神が祀られていると記されている。 そして、このことは「一社ノ深秘」であるという。 現在の貴船神社には奥宮と本宮と中宮の三宮があり、二つの本社と十四の摂末社がある。 では、これら九柱の神々はどの本殿・末社の祭神なのであろうか。
気生根御本社ノ中ニ伊弉諾尊第四ノ御子、素戔嗚尊ヲ祭り奉リイマセリ。 出雲ノ大社ノ御神霊ナリ。
貴舩大明神御本社ノ中、大己貴尊ヲ祭り奉リイマセリ。 則チ出雲大社ノ御神也。 下賀茂ニモイマセリ。
気生根大明神ハ御本社ニヲヨソ九神御鎮座ナリ。 世間流布ノ神書ニ御本社ハ是神ナリ。 彼神也トサマザマ説アレドモ、九神マシマセバ、何レヲ御本社ナリト定テ談ル事、一社ノ深秘也。 御鎮座ニヲイテハ前後アルベシ。
貴布祢トハ本、気生根トモ、黄舩トモ、木舩トモ書申セリ。 中頃ヨリ貴舩トモ、又カナニテ貴布祢トモ書申也。 皆ワケアリ。
資料4の祭神情報と完全に一致するわけではないが、九柱の祭神に関する記事が『秘書』の他の部分に見える。 以下に「スサノヲ」情報を含む記事を二箇所引用して、さらに検討を加えたい。
【資料5】『秘書』
[中略]
- 三丁表~裏
奥ノ社ニハ国常立尊ト、玉依姫命ト、船玉命ト、罔象女神ト四座ノ御神マシマセリ。 中ノ社ニハ素戔嗚尊ト、大己貴尊ト、神武天皇ト三座ノ御神ヲ御鎮座也。 端ノ社ニハ高龗ト、鸕鶿羽葺不合尊ト二座ノ御神御鎮座也。 奥ノ御本地仏ハ、阿弥陀如来ト、地蔵菩薩ト、観音菩薩ト也。 中ノ宮ノ御本地仏ハ、薬師如来ト、文殊菩薩ト也。 端ノ宮ノ御本地仏ハ釈迦如来ト、不動明王ト也。 中ノ宮ニハ出雲ノ大社ノ神マシマスユヱ、結ニ神ト申タテマツルナリ。- 五丁裏~六丁表
舌氏秘記ニ云、貴生根本社ノ中、素盞烏尊ヲ祭奉ルト云々。
雍州府志曰、素盞烏尊ハ天忍穂耳尊皇親也。 瓊々杵尊ノ祖神也故ニ、貴布祢ハ素盞烏尊ヲ勧請シ奉ル。 依之、下賀茂、上賀茂、并ニ布祢ト三社ハ相比並スト云々。
日本紀ニ云、素盞烏尊自天降到於出雲国、斬其蛇、妃稲田姫云々。(中略)
考ニ云、神武天皇ハ神日本磐余彦ト申テ人皇ノ始也。 素盞烏尊、伊弉諾尊ノ御子天照大神ノ御弟也。 大己貴尊ハ其御子也。 二神共ニ出雲ノ大社ノ御神体也。 日本地主ノ御神也。 大社ノ御神御鎮座ナルユエ、中ノ宮ヲ結ノ神ト申シテ、縁結ヲタノミ申也。 右ノ三社□結社ニ御鎮座マシマセリ。
Aに拠ると、奥宮・中社(中宮)・端宮にそれぞれ複数の祭神が祀られており、本地仏も複数である。 Aを含む『秘書』は、近世期以前の貴船神社における多様な神仏習合の情報が記録されている貴重な史料である。 奥宮には①国常立尊、②玉依姫命、③船玉命、④罔象女の四柱が、中社には⑤スサノヲ、⑥オオナムチ、⑦神武天皇の三柱が、端ノ本社には⑧高龗、⑨鸕鶿羽葺不合尊の二柱の神々が祀られているという。 合わせて九柱が祀られている点は資料4『秘書』所引「黄布祢社人舌氏伝来之秘書」部分と一致しているが、祭神名に異動がある。
[中略]
Aで注目したいのは「中ノ宮ニハ出雲ノ大社ノ神マシマスユヱ、結ニ神ト申タテマツルナリ」と言い、⑤スサノヲ、⑥オオナムチを祀っていることを記す点である。 現在、中宮には林田社(祭神「少彦名命」)と私市社(祭神「大国主命」)を祀っている。 後者に関しては、近世の史料には「和市」「輪一」などの表記もあり、古くは「わいち」と訓んだと思われる。本地仏「弁才天」の秘められた姿
ここで、慶応本『貴船の本地』に戻って、貴船神社祭神の本地仏について考察を加えたい。 慶応本で重要なことの一つは、貴船の大明神の本地が「弁才天」であることである。 姫君が神になった大明神の本地であるから、女性の弁才天が本地であることは妥当である。
[中略]
貴船神社関連の祭神・仏菩薩の名を多く記しているのは『秘書』である。 『秘書』では二箇所に弁才天関連の記述が見出せる。 弁才天に言及する部分をABとして掲げた。
【資料13】貴船神社蔵『秘書』[中略]
- 奥深ノ社、吸葛社、私市社モ摂社ナリ。 末社ハ楫取明神、牛一明神等也。 其余ハ皆摂社也。 摂社末社ノ御神躰ノ事別記ニモ是有。 御本地仏ノ事モ有也。 奥ノ社ノ摂社末社ハ、奥深ノ社《祭由利若大臣云々》、 吸葛社《一ニ蔓トモ桂トモ書也。日本ニ雨ノ神也。伝百大夫ト云々》、 鈴一社《一ノ字、市トモ書リ》、 松尾社《大山祇ノ神也》、 日吉社《近江比枝山鎮守也》、 天盤[磐]櫲舩《一ニ烏ノ有ノ社ト云》、 藤部社《旅ノ神、又ハ幸ノ神トモ》、 二社《大明神ノ荒魂ヲ祭ルト云々》、 山王社《近江坂本ノ社也》、 罔象女社《丹生ノ大明神也》、 白石社《白鬚大明神也。本地ハ地蔵菩薩也》、 梅宮《大若子ト若子ノ神ヲ祭ル也》、 鎰採社《一梶取トモ鍵取トモ。本地弁才天》、 (中略) 端ノ社ノ摂社末社ハ、丑市社《牛一トモ。舌氏ノ元祖也。本地観世音也》、 (中略) 和一社《輪市トモ。本地十一面観音也》、 山尾社《本地金伽羅童子》、 河尾社《本地勢多伽童子》 (中略) 護摩堂《本地々蔵菩薩》 (下略)
- 往古ハ都ノ北、幡枝・市原・野中・二瀬・鞍馬、皆木舩ノ領ニシテ産子也。 幡枝ハ木舩大明神ヲ勧請シ産神ト奉ル也。 八幡宮ハ後ニ御鎮座也。 京ヨリ一里余リニ有也。 宮ハ当社トモニ道ヨリ東ノ小山ノ中也。 (中略) 市原ノ中路ノ傍ニ栗穂ノ弁才天ノ社有。 此社ノ東ニ神明ノ宮アリ。 其ヨリ埜中村ニ至リテ、福取毘沙門堂有。 北ニ虎杖ノ芝原有。 貴舩領ナリ。 (下略)
後者B「栗穂ノ弁才天」は京都市左京区静市市原町に鎮座する厳島神社のことであって、同社は一般的には貴船神社の摂末社とは認識されていない。 [中略] しかし、当該神社は地理的に考えても『貴船の本地』のいう弁才天とは無関係であろう。
前者A「鎰採社」は確かに貴船神社の境外末社である。 黄舟遡源神話において玉依姫が乗った黄舟の船頭をしたことから、現在では「梶取社」の名が与えられている。 しかし、旧称は「鎰採(鍵取)社」であり、現在も宇賀魂神を祭神とすることから明らかなように、本来は稲荷社であって、それゆえ商売繁盛を御利益としている(『貴船神社要誌』)。
[中略]
しかしながら、『貴船の本地』のいう弁才天は姫君が神と顕れた貴船の大明神、おそらくは主祭神か、それに準ずる重要な祭神の本地仏であるから、一の鳥居の横に鎮座する鎰採社=稲荷社が妥当とは考えられない。
すなわち、『秘書』に記されたA「鎰採社」・B「栗穂ノ弁才天」は両社とも『貴船の本地』がいうところの弁才天ではないと考えられるのである。
ここに「弁才天」の名を出すもう一つの史料がある。 國學院大學図書館蔵『所持記』である。
【資料14】『所持記』十九丁裏~二十丁裏扨又、当社ヲ弁才天同体ト云ヘル人モアリ。 此ノ天女ニ八擘アリ。 コレモ不動八大童子ノ心也。 ソノ時ハ、当社ニ添セ玉フ牛一ヲバ牛馬童子ト習フ也。 弁才天ヲ祭ニハ、丑ノ時ヲ涓取、当社ヲ祭ルニモ参詣スルニモ、丑ノ日ヲ専一トス。 然レバ、コレニテモ、同体異名ノコトハ知ラレタリ。 矧、弁才天ハソノ垂迹、市杵島姫ニテ、天照大神ノ分身タル由、神書ニ述タリ。このように『所持記』では「当社」の祭神が「八臂弁才天」と同体だと説いている。 貴船神社祭神については資料5の『秘書』に多くの神名があったが、それらとは別の本地説が存することになる。 『所持記』のいう「当社」は端の本宮(今の本社)のことと思われる。 貴船神社の主祭神「貴船大明神」の本地仏が「八臂弁才天」なのであろう。 このことは、前掲資料5『秘書』Aには「端ノ宮ノ御本地仏ハ釈迦如来ト、不動明王ト也」と相違する。 しかし、Aには阿弥陀・不動の二重の本地が記されていた。 「八臂弁才天」は三つ目の本地仏なのである。 いずれ、前掲の史料に収載されていた九柱の祭神、あるいはその他の神々にもそれぞれ別の秘せられた本地仏があったのであろう。 本社や摂末社の祭神名・本地仏に関して、時代によって様々な信仰・伝承・情報が存在したのである。
明治維新の廃仏毀釈に遭うまで端の本宮には不動堂があった。 不動明王像を安置し、護摩壇で聖火を燃やして祈祷をする舌氏出身の修験者がいたものと推測される。 だから、「八臂弁才天」の「八」は「不動八大童子」に通じ、あるいは「弁才天十五童子図」における牛馬童子が丑日を重視する舌氏の祖先の「牛鬼」、あるいは「仏国童子」たちにも通ずるという論法なのであろう。
『所持記』の記述を勘案すると、慶応本『貴船の本地』が巻末で主張した本地仏「弁才天」は貴船神社端の本宮本社の「貴船大明神」そのものである。 ただし、この本地仏「弁才天」説は舌氏秘蔵の『秘書』にさえ見えない、つまり『所持記』の発見がなければ未だに見出せていない特殊な考え方であった。 それにしても、この秘められた本地仏を物語末尾に導入できた『貴船の本地』の作者とはいったい何者なのであろうか。
逆に言えば、慶応本『貴船の本地』にこの本地仏「八臂弁才天」が記されていることによって、この本地説が近世になってから賀茂別雷神社との訴訟の中で理論武装するために捻出された新説なのではなく、十五世紀中葉にはすでに形成されていた古い本地説であることが判明する。 本地仏がただの温和な福徳神「弁才天」ではなく、密教的な戦闘神「八臂弁才天」であることは、貴船神社の中世的性格を考察する上で非常に重要な新事実である。