金峯神社 奈良県吉野郡吉野町吉野山 式内社(大和国吉野郡 金峯神社〈名神大 月次相嘗新嘗〉)
旧・郷社
現在の祭神 金山毘古神
本地 阿閦如来釈迦如来金剛界(微細会)大日如来

「両峯問答秘鈔」[LINK]

問云、子守・勝手・金精大明神・三十八所八大明王等、悉自月氏至日域垂跡、云云。 然者於天竺者如何。
答云、如縁起者於霊鷲山守護四方角護法也。 而鷲峯檀徳飛来之時各随来、云云。 先子守者、未申護法也。 宗慈哀衆生如一子(本地地蔵)。 次勝手者、辰巳護法。 慕悪相払四魔、八大龍王振威破怨敵(本地毘沙門)。 次金精大明神者、艮護法(本地大日)。 次三十八所八大明王戌亥護法(本地十一面)。

「金峯山秘密伝」巻下

当山諸神本地異説ノ事

勝手大明神 本地多聞天。一説には大勢至菩薩。
同若宮 本地文殊師利菩薩。一説に不動明王。
子守大明神 本地地蔵。一説には阿弥陀如来。
同若宮 本地阿弥陀。
三十八所 本地千手観音。一説には十一面。秘密は胎蔵大日也。一説には金剛界三十七尊也。
金精大明神 本地金剛界大日
佐投明神 本地地蔵菩薩。
雨師大明神 本地如意輪。醍醐寺青龍権現と同体云々。或は十一面観音。
天満(北野) 本地十一面。
牛頭天王 本地薬師如来。

「金峯山創草記」

諸神本地等

金剛蔵王(過去釈迦、現在千手、未来弥勒、或云大日、或云地蔵)
役行者(不動) 義学(阿弥陀) 義賢(弥勒)
天満天神(十一面)
佐抛(地蔵)
勝手大明神(縁起云、霊鷲山辰巳護法蔵王権現、大聖文殊垂迹云々、或云得大勢、或云不動、或云毘沙門)
矢護若宮(文殊)
大南持(薬師)
八王子(十一面)
子守三所権現(僧体阿弥陀、女体地蔵、俗体十一面、或云胎蔵大日云々)
三十八所(無量寿、或云金剛界三十七尊并胎蔵大日、或子守胎蔵大日、三十八所金剛界大日、或聖観音、或云如意輪観音、或云大勢至)
若宮(文殊、或云大勢至)
牛頭(薬師)
金精大明神(霊鷲山丑寅護法阿閦仏、或云釈迦、或云金剛界微細会大日)

首藤善樹「金峯山寺史」

金精社

 金精社は金峯山の山頂に近く、二鳥居(修行門)の地に位置する。 金精大明神を祀り、吉野山の地主神と言われる(『熊野金峯大峯縁起集』所収「熊野三所権現金峯山金剛蔵王縁起」、東京大学史料編纂所所蔵写本「大和州吉野旧事記」)。 吉野八社明神の一つ。 金精明神。 二ノ鳥居宮とも呼ばれた。 「延喜式」吉野郡十座のうち筆頭に「金峯神社(名神大 月次相嘗 新嘗)」とあるのに比定される。
〔祭神と本地〕 「金峯山秘密伝」中の御嶽曼荼羅の外周左側の中ほどに「金精」と図示される。 そして「金精大明神本地供」が記され、「金精大明神 本地金剛界大日」とある。 「両峯問答秘鈔」は 「子守・勝手・金精大明神・三十八所の八大明王等、悉く月氏より日域に至って垂跡」、 「金精大明神は艮の護法なり。本地大日」(原漢文) とする。 「金峯山創草記」には 「金精大明神 霊鷲山丑寅護法。阿閦仏。或云釈迦。或云金剛界微細会大日」 とある。
 慶応四年(1868)七月の「大和国国軸山金峯山由緒略記」(東三箱五号)には 「金精明神 去子守社、在七町余。此神ハ地主神ト名ク。御神号鎮座ノ時代分明ナラス」 とある。 同年明治元年十月の「大和国吉野山金峯山寺神仏勘文」(東三箱六号)には 「金精神社 吉野山旧記ニ神号及ヒ鎮座ノ時代分明ナラスト云ヘリ。思フニ延喜式ニ金峯神社トアル。恐ラクハ此社ナランカ。サレトモ何レノ神霊ヲ祀ルカ分明ナラス」 とある。
 明治初期の「金峯山神社寺院由緒記」は竹林院龍敬が蔵王権現を神号に改め、僧侶は復飾するようにという明治政府の指令に対して、蔵王権現は仏体であり仏寺として存続するように歎願するために書いた書であるが、「元元集」「神社考」「神社啓蒙」に安閑天皇とあり、「神系図」に少彦名命とあり、「天地麗気記」に金剛蔵王は宝喜菩薩とあり、「旧事本記」(大成経)には欽明天皇四年九月に金峯権現魂神を祭るとあることを調べ上げ、 「金峯ノ神社ハ即チ二ノ鳥居ニ鎮座在ス。金精大明神是也。然ルニ前ニ引証ノ諸書ミナ以テ金峯ノ社ハ金剛蔵王権現ナリト云テ、祭ル所ノ神体或ハ少毘古那命、又ハ安閑天皇ノ尊霊ナリト。其説区ニ別也。是レ全ク金峯ノ社ハ金精神ナルコトヲ不知。大成経・旧事本記巻第三十・帝皇本記上巻ニ云云スル。依レトモ彼ノ旧事本記ノ説真偽不分明ナレハ信用難成。今愚考云。安閑帝、又少彦名、或金山彦ノ命抔ト有ル。即チ金精明神ナルコト疑ヒナキ所歟」としている(東三箱二五号)。
 金峯神社の祭神は安閑天皇、少彦名命、金剛蔵王権現と諸説あるが、まさしく「御神号鎮座ノ時代分明ナラズ」ということである。 しかしその名称から推して考えるならば、原初の金峯神は山上への登山口に祀られた神だったのではなかろうか。

向村九音「創られた由緒 —近世大和国諸社と在地神道家—」

附論 『大乗院寺社雑事記』を中心に見る率川神社 —中世期に形成された像と機能—

第三節 中世における率川神社祭神にまつわる言説

 中世の率川神社祭神は吉野水分神社の祭神と重ねられて説かれる。 以下に、両社の祭神と本地の祭神と本地について記した『雑事記』の記事を引用する。
【8】長享二年(1488)二月二十四日条
一 吉野愛染之宝塔聖御嶽万タラ持来、拝見了、相語、上御前ハ戍亥向也、
 南本地十一面、女体也、率川也、
 中本地阿ミタ、
 北本地地蔵、三十八所也、
 下御前者北向也、勝手大明神、
 西本地文殊、
 東本地毘沙門、持太刀座像也、
 亦末社共金上大明神、本地大日
 牛頭天王薬師、八王子地蔵、
 佐ラケ地蔵、北野天神十一面、
一 奈良ノ子守社者南向也、云率川トモ云子守トモ、
 東十一面、女体、率川大明神、
 中地蔵、三十八所、子守大明神、
 西阿ミタ、住吉大明神、
  南円堂巡礼ノ時、向未申方、一言主・大窪・率川ノ大明神ト申是也、
一 春日若宮ノ南三所ヲ三十八所大明神ト申、則吉野上御前也、然者三所ノ御次第可為如吉野歟如何、

鈴木昭英「金峰・熊野の霊山曼荼羅」

吉野曼荼羅

 なお。ここで金峰・吉野諸社の尊名、神像形姿、本地仏の一覧を掲げることにしよう。 『私聚百因縁集』『金峰山秘密伝』『金峰山創草記』『小篠秘要集』『両峰問答秘鈔』『大乗院寺社雑記』長享二年二月二十四日条、及び金峰・吉野の諸神を描写した鏡像・懸仏や吉野曼荼羅などを全体的に照合して作成した。 本地仏の異説の多いのに驚かされる。

  神名 神像姿 本地
蔵王堂 蔵王権現 夜叉形 〔過去〕釈迦・〔現在〕千手観音・〔未来〕弥勒(または大日、あるいは地蔵)
上宮 子守三所権現 僧体 阿弥陀
女体 地蔵
俗体 十一面観音(または胎蔵界大日)
若宮姫明神 女体 阿弥陀
三十八所 俗体 千手観音
率川 女体 十一面観音
下宮 勝手大明神 夜叉形 毘沙門天(あるいは文殊、あるいは得大勢至、不動)
矢護若宮 童子形 文殊
末社 金精大明神 俗体 金剛界微細会大日(あるいは釈迦、あるいは阿閦仏)
牛頭天王 夜叉形 薬師
八王子 俗体 十一面観音(または地蔵)
大南持 俗体 薬師
雨師 俗体 如意輪観音(あるいは十一面観音)
佐抛明神 俗体 地蔵
天満天神 俗体 十一面観音