霧島東神社 宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田 式内論社(日向国諸県郡 霧嶋神社)
旧・県社
現在の祭神 伊弉諾尊・伊弉冉尊
[配祀] 天照大神・瓊瓊杵尊・天忍穂耳尊・彦火火出見尊・鸕鷀草葺不合尊・神日本磐余彦尊(神武天皇)
本地 千手観音

「三国名勝図会」巻之五十六

御池[LINK]

蒲牟田村にて、霧島矛嶽の東南麓にあり。 周廻三里、池の半面は都城邑に属す。 碧水湛然として、深さ測るべからず。 四方の池岸、蒼崖壁立して、七港あり。 松港、躯瀬港、皇子港、創崎港、刈茅港、柳港、護摩壇港、是なり。 護摩壇港に、護摩壇の蹟あり。 護摩壇は、池の西岸、高さ五六間の絶崖上に、二筵許の平処あり。 其上に嶽あり。 覆ひ出て屋の状をなす。 是性空上人、護摩を焼し処なりといふ。 上人、此石窟に座して、護摩供を修せし時に、九頭の神龍、忽然として現し、一顆の宝珠を捧け来て是を献ず。 上人曰、此は是方便随類の身にして、本地の真身に非ずと。 修練弥確し、既にして千手大悲の妙相を現す。 上人叉手礼拝して澆季末世の衆生を救んことを請ふ。 因て池畔の港ごとに、大悲の像を安置す。 神龍の捧し宝珠は、銅器に盛り、石函に貯へて、護摩壇の石窟に安置せしに、其後霧島嶽発火の時、池中に飛入しとて、今はなしとぞ。 夏天大旱の時、土人此池に来て雨を祷るに、応験、神の如しとかや。 此池、霧島四十八池の第一なり。 又此池を距ること半里許、西方に一池あり。 都城に属す。 小池といふ。 是霧島四十八池の一なり。 往古は此池を陰池と呼ひ、都城の池を陽池と唱へしに、今は御池小池といふ。 蓋霧島山東南北の麓は、高城及び当邑等にて、伊弉諾冊二神の聖蹟なれば、此両池陰陽の称あるも、此両神の縁故なるべし。 此御池は、霧島東御在所両所権現社より辰巳八町許にあり。 両神聖蹟の事は、此社及び高城東霧島権現社等を参考して可なり。
○性空上人石像 御池の畔、石窟の護摩壇にあり。 高さ二尺五寸。 石像の側に、神龍の捧し玉を蔵せし石函あり。 周囲七尺、長二尺あり。 護摩壇の石窟に、護摩灰存じ、今化して鉄石の如し。 是を砕けば、五穀の状ありとぞ。 此灰鎮符となるといふ。 参詣の徒、拝請して帰るとかや。

霧島東御在所両所権現社[LINK]

蒲牟田村にあり。 祭神二座、伊弉諾尊、伊弉冊尊、是なり。 同殿六座、天照大神、忍穂耳尊、瓊々杵尊、彦火火出見尊、葺不合尊、神武天皇、是なり。 土俗に、高城邑東霧島神社の奥之宮と号す。 霧島権現六社の一とす。
一旧記に、【続日本後紀】、承和四年八月壬子、日向国諸県郡霧島岑神、預官社と見えたるは、即当社ならん。 当社は、霧島嶽の東腰にあり。 霧島岑とは、今霧島山の矛峯をさす。 是当社の境内なり。 当社は、平地より、石磴三百六十余級を経て登る。 是より矛峯に登路ありて、亦遠からず。 続後紀、岑とあるは、蓋此故なりと。 又両所権現といふは、宗祀諾冊二尊なるを以てなり。 東とは、西霧島に対し、御在所とは、御座所にて、此地諾冊二尊行在の旧墟なる故に、蓋この遺称あり。 かく二尊の聖蹤なるに因り、二尊を勧請ありしとぞ。 当社、古来霊蹟甚多しといへども、山上火災起りし時、多く其伝を失へり。 祭祀正月八日、九月九日、十一月初酉日。 社頭に東霧島山の額を掲く。 寛陽公の親筆にて、御名と、御印章あり。 社司押領司氏、別当を錫杖院といふ。
○西掖宮 本社の左右にあり。右は白山権現、左は性空上人侍者乙若の両童なり。
○狗人両社 本社の前、左右にあり。右は火闌降命、左は火明命。
○本地堂 本社の西南、八間許にあり。本尊千手観音大士。此本尊は、圓室公、安置し玉へり。
○祓川 本社の卯方、八町許にあり。 水源蒲牟田村の内に涌出し、錫杖院門前を過ぎ、松八重川に合す。 当社伝記に曰、此川は、太古伊弉諾伊弉冊両尊、御矛を指留玉ひし時、衆神会集して、身滌をなし、御禊ありし処なる故に、祓川と名く。 今に至り、両所宮に詣る者は、此川にて水を灌き浄めするを故事とす云々。 或云、書紀一書に、所謂伊弉冊尊、火神軻遇突智の為に焦れて化去玉ひ、伊弉諾尊、冊尊を追ふて黄泉に入り、遂に冊尊と絶妻の誓に建り、既にして還るや、其汚穢の処に到るを悔ひ、檍原に於て御禊をなされし時の方域に係るを以て、此名ある歟。