霧島岑神社 宮崎県小林市細野 式内論社(日向国諸県郡 霧嶋神社)
旧・県社
現在の祭神 瓊々杵尊・木花咲耶姫命・彦穂々出見尊・豊玉姫命・鸕鷀草葺不合尊・玉依姫命
本地 大日如来

「三国名勝図会」巻之五十四

雛守六所権現社[LINK]

真方村にあり。 雛守嶽の麓なり。 祭神六座、瓊々杵尊、木花開耶姫、彦火火出見尊、豊玉姫、鸕鷀草葺不合尊、玉依姫、是なり(神体各木像)。 霧島権現六社の一とす。 按するに、当社の由緒は、村上天皇の御宇、性空上人霧島山に来て霊跡を探り、六座の神を雛守嶽に勧請す。 因て雛守権現と号す。 古来雛守嶽の八分にありて、数百の星霜を経たりしに、享保元年、霧島山燃えし時、此処に遷宮す。 松齢公、当社を御崇敬ありて、屡参詣し玉へり。 社内に天承六年、松齢公、神殿造営、貞享二年、寛陽公新建の棟札を蔵む。 祭祀九月十九日、十一月十五日。 闔郷の総鎮守にて、毎に詣人多し。 往古は今の細野村宝光院、当社の別当にて、天正十六年の梁文にも、其事見えたり。 其後燃らす。 宝光院に詳なり。 社司黒木氏。

霧島山中央六所権現宮

細野村雛守嶽の東面五分にあり。 山下より二十五六町登て至る。 又瀬多尾六所権現と号す。 祭神六座、瓊々杵尊、彦火火出見尊、葺不合尊、木花開耶姫、豊玉姫、玉依姫(各木座像、長一尺五寸、性空上人作)、是なり。 霧島権現六社の一なり。 社記を按ずるに、昔し性空上人霧島山に来り。 草廬を結んて行道し、乙若の二神童と共に、霧島山の五方に、霧島神社并に梵刹を建て、当社を以て、霧島山中央権現といふ。 其梵刹は、即今の別当寺なり。 上古当社は、霧島山絶頂矛峯と火常峯との中間の地、東西三町、南北二町許は地形凹にして、平処あり。 此を背門丘と呼ぶ。 又此処を天河原とも称ず。 太古瓊々杵尊天降りありし所なりといへり。 其地形の詳は、曽於郡邑の巻、二上峯詳説の段に記すか如し。 因て又当社を瀬多尾権現と号せるなり。 瀬多尾と、背門丘とは同音なり。 或は迫門尾に作る。 或は瀬戸尾に作る。 其中央権現とは、霧島山五方の神社寺院の内、四方門といひ、当社は絶頂中央にありし故、四方門に対して名を得たり。 当時別当寺も其所にありて、瀬多尾寺と号し、又奥院とも唱へしとなり。 奥院と唱ふも、亦四方門神社の別当寺に対しいへるとぞ。 天永三年壬辰二月三日、霧島山上に火発し、神社寺院焼亡す。 此時は即其地に旧の如く神社寺院重建あり。 文暦元年甲午十二月二十八日、火常峰に火大に発して、神社等又焼亡し、砂石降埋む。 先是矛峰の辺、水泉湧出せしに、是に至て水泉甚乏しく、山上の居住を得ず、故に半里許山下に隔れる、矛峯と虚国嶽との間なる、瀬多尾越に当社を移す。 山上背門丘に鎮座の時は、瀬多尾越へ支院三十六坊あり、因て其地に遷宮なりしとぞ。 其後山上背門丘社跡は、旧瀬多尾と名く。 旧瀬多尾とは、瀬多尾越の新地に対してなり。 当社は瀬多尾越にあること久して、多くの星霜を歴たり。 享保元年甲申九月、復霧島山上金剛胎蔵両池の辺より火大に発し、寺社悉く焼亡し、此処砂石の為に六尺許埋没す。 時に神体は細野村今坊権現側へ仮殿を建て安置す。 既にして小林邑治岡原といふ所に仮殿を建て、鎮座あり。 其後山上火斂しかば、衆人議し、当社は古来深山に鎮座ありし故、其地に遷宮当然なるべしとて、瀬多尾越に登り、旧跡を視るに、地方二里許、土石焼焦れ、一草木のなく、遷宮せべきの形勢ならず。 今の地を相するに、泉水も出て、吉地なるを以て、地を削り、社を立て、享保十四年己酉八月二十四日岡原より遷宮なり。 其後当社又火災に逢ひしかば、造営して旧に復す。 今の地に遷宮の時、深夜社殿へ神楽の音甚高く響き、社僧以下衆人に至り、聞かざる者なかりとぞ。 今にも時々夜中神楽の音あること往々ありとかや。
【続日本紀】曰、承和四年八月壬子、日向国、諸県郡、霧島岑ノ神官社ニ預ル。是当社ならん歟。 承和の時、当社は霧島山の絶頂にあるを以て、岑の字を用ひしなるべし。 旧説に、此霧島岑神とは、高原東御在所両所権現なりとす。 然れども、彼社は山上に非ず。 是を以て見れば、当たらざるが如し。 故に【続後紀】の文、彼に載すといへども、又此に載せて参考に備ふ。 【続後紀】又曰、承和十年九月甲辰、日向国無位高智保皇神奉授従五位下。 又【三代実録】曰、天安二年十月二十二日、授日向国従五位上高智保神従四位上。是亦当社ならん歟。 蓋当社当時は霧島岑神社といひ、霧島岑は即ち高千穂峯なれば、承和の中ごろに至り、改て高千穂神社といひしなるべし。 又曽於郡西御在所霧島権現社も、上古背門丘にありしを、今の地に遷祀の伝へあり。 因て或は【続後紀】、【三代実録】の高智保神を以て彼社に充つ。 今両書の文を各社に記して、識者の明裁あらんことを欲す。
霧島山五方神社梵刹の名、当社別当瀬戸尾寺の旧記に見えて、下に出す。 五方の神社を、性空所建といふは、多く再建にして、其梵刹は多く創建なり。 性空は【元亨釈書】、【本朝高僧伝】を併せ考ふるに、霧島に来るは、天慶頃より、康保頃迄の間に在るへし。 嚮に所謂【続後紀】等の文、果して当社の事なるに於ては、天慶は、彼承和に後るゝこと百余年なれば、当社の如きも、性空以前より在りて、性空再建せるなり。
松齢公飯野御在城の時、特に当社を敬仰し、度々参詣し玉ふ。 昔時は霧島中央権現の名高くして、参詣の徒、四方より雲集せしに、雛守嶽へ遷宮の後、漸々少なくなりしとぞ。 祭祀九月二十九日、十一月二十八日。 昔時は邦君等寄附の宝品若干伝はりしに、享保の山火に厄せられて、悉烏有となる。
○本地堂 当社の庭にあり。 性空上人、大日如来を中央権現宮の本地として、山上背門丘へ安置せりとぞ。 毎年六月二十三日には、高原小林二邑の土民、此堂前にて土俗の棒舞をなす。
○峯水天社 当社の庭にあり。 往古性空上人、山上背門丘の天之井に勧請せりとぞ。 因て峯水天と唱ふ。
○熊野権現社 当社の庭にあり。 往古山上背門丘にありて、性空創建といへり。
○霧島王子社所在并に開基、前に同し。
○瀬戸尾寺 前文に見ゆ。 当社の下一町許にあり。 天台派修験宗にして、当社の別当寺なり。
[中略]
○霧辺山四方門中央社寺の説  此説瀬戸尾寺旧記に見ゆ。 曰、東門、高原東御在所権現、別当東光坊。 南門、都城荒嶽権現、別当明観寺。 西門、曽於郡西御在所権現、別当華林寺。 北門、小林雛守六所権現、別当宝光院。 中央、霧島中央瀬多尾六所権現、別当瀬多尾寺。
明治6年、夷守神社を霧島岑神社に合祀