北野神社 愛知県名古屋市中区大須2丁目 旧・村社
現在の祭神 菅原道真
本地 聖観音

「名古屋市史 社寺編」

北野神社[LINK]

北野神社は中区日出町下ノ切の東側(徳川時代には北野新地と称しき)に在り、
[中略]
初めは北野社又は北野天満宮と号す、 もと尾張中島郡長岡庄大須(今は美濃羽島郡小藪村大字大須)に在り、 後醍醐天皇の勅建にして、京都北野の社より菅公の画像を遷して鎮座すといふ(此画像今大須宝生院に在り)、 康永三年二月七日焼失し、其後再建せられたるものは、慶長十年、また木曽川の洪水に流失す、 同十七年、徳川家康の命に依りて、今の地に遷座す、
[中略]
祭神は菅公(今の神体は束帯の木像なり、本地は観世音菩薩にして、真福寺の本尊即是なりき)なり、 殿宇には、神殿、社務所等あり、
[中略]
社務は真福寺(仏寺の部に詳なり)を宮寺として、開山能信以来、代々別当職に補し、慶長十七年遷座より、同寺の鎮守として奉仕せらる

宝生院[LINK]

宝生院は北野山と号し、真福寺と曰ふ、 中区門前町四丁目の西側に在り、
[中略]
もと尾張中島郡大須荘(今美濃国羽島郡小藪村大字大須)北野に在り、 初め此地に観音堂あり、中島観音堂(寛元三年の文書に始て見えたり)と称せり、 元享四年、天満宮(神社の部に詳なり)を此地に遷し、観音堂は社僧(正中元年の文書初見せり)となりて、宝生坊(北朝康永四年の文書に初見す、因に宝生の名は此寺に牛王経、牛王儀軌と曰ふ稀有の秘経あるによるといふ)と号せしが如し、 時に能信密法伝流の為めに、此地に来り、宝生坊に住して一寺を開創し、之を真福寺と号し、宝生坊の名は後宝生院と改められしが如し、
[中略]
慶長十年二十二世堯遍の時、木曽川洪水の為め、堂舎一時に流失し、寺宝亦散逸するもの多し、 十七年徳川家康、成瀬正成に命じて、之を今の地(世に此地を指して大須と呼ぶ)に移さしめ、仏像、経蔵(経蔵は開山能信の経籍を主として蔵せしものにして、醍醐寺、根来寺の経蔵と共に之を三経蔵と称し、若し缼失あらば互に書写流通せしものといへり)、寺宝等を移転す、
[中略]
本尊は木造正観世音菩薩立像(空海の作と伝ふ、往古摂津天王寺に在り、後村上天皇の勅に依り、当寺に遷し、文和元年、入仏供養を修ずといふ、往古観音堂の本尊木造正観世音菩薩立像は、聖徳太子の作と伝ふ、今前立の本尊是れなり)なり